ハプスブルク帝国
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その後、成立した東欧諸国は民族自決を旗印にしたため、自立した民族の均衡を実現しようとしたハプスブルク帝国の遺産を発展させることができず、禍根を残したと大津留厚は述べている[1]

「赤い大公」とよばれたヴィルヘルム大公は帝国の末期を語る。彼はポーランド第二共和国の国民として余生を送ったカール・シュテファン大公の息子である。第一次世界大戦期に帝国陸軍将校を務め、ウクライナ・ハプスブルクの創設を試みた。1920年代にパリへ遁走、後にヒトラーへ傾倒、姿勢を転じてナチス・ドイツソ連に対してスパイ活動を働き、戦後にキエフの獄中で死んだ。そんなヴィルヘルムが1937年12月、友人トカリへ宛てた手紙の中でオットー元皇太子を批判しながらこう書いている[3]。「どんな復興も「ユダヤ人フリーメイソンのおかげ」でなされるもので、王朝そのものが「ユダヤ人の行う事業」になってしまった」と。ティモシー・スナイダーは大公の考えを不確かだと書いているが、特に根拠を添えてはいない。

この点、宮廷ユダヤ人が帝国の財政を支えたことと、フリーメーソンのシャルル・ド・モンテスキューが帝国のはからいで『法の精神』を解禁された[4] のは事実である。それに、帝国郵便を担うトゥルン・ウント・タクシス家出身の皇帝特別首席代理は全員がフリーメーソンであった[5][6]。一方、ユダヤ人が身分によって素行をまるで異にすることと、フリーメーソンがそれぞれの所属ロッジと階級によって組織と情報を共有する程度が違うと言われていることも踏まえるべきである。その上で枠内の嘆きを合理的に解釈すれば、これは特定のエスタブリッシュメントに向けられているということになる。
領域

ハプスブルク帝国の領域は、大きく分けて以下の3つから形成されていた。
ハプスブルク家世襲領
ハプスブルク家の所領とされたのは、
オーバーエスターライヒ(上オーストリア)、ニーダーエスターライヒ(下オーストリア)、クラインケルンテンシュタイアーマルクティロールフォアアールベルクの各領邦で、現在のオーストリアスロベニアイタリア北部に該当するほか、ラインラント1797年まで)がある。ナポレオン戦争の過程でこれらの領土の多くが一旦は失われたが、ウィーン会議1814年)によって多くを回復し、さらにザルツブルク大司教領を加えた。
ボヘミア王冠領
ベーメン(ボヘミア)、メーレン(モラヴィア)、シュレージエン(シレジア)、ラウジッツからなっていた。ラウジッツは1620年にザクセン公国へ割譲され、シュレージエンの大部分はオーストリア継承戦争1740年 - 1748年)の結果プロイセン王国に奪われた。なお、ボヘミアとモラヴィアを併せておおよそ現在のチェコ共和国に該当する。
ハンガリー王冠領
ハンガリー王国はモハーチの戦いの後、北西部の3分の1がハプスブルク家、東南部と中部の3分の2がオスマン帝国の支配下に入った(オスマン帝国領ハンガリー)。オスマン帝国の衰退とともに、1699年カルロヴィッツ条約で旧ハンガリー王国の領域の大部分がハプスブルク家へ割譲された。ハンガリー王国領とされた地域は、現在のハンガリースロバキアクロアチアヴォイヴォディナトランシルヴァニア、ルテニアのカルパチア地方が含まれていた。オスマン帝国と接する最前線は、軍事上の必要性からウィーン政府による直轄支配とされ軍政国境地帯を構成した。1911年のオーストリア=ハンガリー帝国領

これら以外に歴史上、以下の地域がハプスブルク帝国の領域となった。

南ネーデルラント (現在のベルギールクセンブルク1713年 - 1792年

ミラノ公国ロンバルディア1713年 - 1797年

ナポリ王国1713年 - 1735年

サルデーニャ1713年 - 1720年

バナトテメスヴァル1718年 - 1778年

セルビア1718年 - 1739年

ボスニア1718年 - 1739年

オルテニア1718年 - 1737年

シチリア王国1720年 - 1735年

パルマ公国1735年 - 1748年

ガリツィア・ロドメリア王国 (現在のポーランドウクライナの一部、1772年 - 1918年

ブコビナ1774年 - 1918年

ヴェネト1797年 - 1805年, 1814年 - 1866年

ダルマチア1797年 - 1805年, 1814年 - 1918年

ロンバルディア1814年 - 1859年

ホルシュタイン (1865年 - 1866年)

ボスニア・ヘルツェゴビナ1908年 - 1918年

他にトスカーナ大公国1737年 - 1799年, 1814年 - 1860年)もハプスブルク=ロートリンゲン家が統治したが、君主であるトスカーナ大公は常にハプスブルク帝国の君主とは別に存在し、最終的に皇帝家の分家であるハプスブルク=トスカーナ家に統治される同盟国もしくは衛星国となった。
歴代当主

マリア・テレジア以外はいずれも神聖ローマ皇帝またはオーストリア皇帝としての呼称である。
フェルディナント1世1526年 - 1564年

マクシミリアン2世1564年 - 1576年

ルドルフ2世1576年 - 1612年

マティアス1612年 - 1619年


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