ハプスブルク家は、アウストラシアのエティション家の分家であり、スイス北東部(バーゼル近郊)のライン川上流域を発祥地とする。
家祖は10世紀に東フランク王国アルザス地方のブライスガウ(ドイツ語版)に存在したグントラム金満公である。さらなる祖が初期中世メロヴィング朝フランク王国アウストラシアのブルゴーニュ地域圏のアルザス伯(英語版)でエティション家の家祖となった上アルザス伯エティショ(ドイツ語版)である[注釈 5]。エティショの祖父アマルガールはウァルダレヌスの娘アキリーナを妻として、ブルグント王国の伯爵領において女子修道院や男子修道院の建設に出資した人物であったが、629年創立のベーズ修道院(英語版)もその一つである。
グントラムは952年、アウストラシア議会の議決により皇帝オットー1世から領地を没収され、東フランク王国内でスイスに移住した。グントラムの孫であるクレットガウ伯ラートボトが1020年から30年頃にハビヒツブルク城を築いたといわれる。この城はその後ハプスブルク城と呼ばれるようになった。城は現在のスイスのカントン・アールガウにある。ハプスブルクの名は、高地ドイツ語の鷹の城(Habichtsburg)に由来するという説や、近くに浅瀬の川があることから中高ドイツ語のhab/hap(浅瀬)に由来するという説があり、一致を見ていない。最初に王家自身によって文書でハプスブルクの名前が使われたのは1108年に遡る[3][4][5]。ハプスブルク城は11世紀から13世紀に居城となった。
ハプスブルク家は、チューリッヒ州、アールガウ州、トゥールガウ州で伯爵権などの政治的特権を得ることや婚姻政策を通じて影響力を拡大した。13世紀にハプスブルク家は上アルザスとシュヴァーベンの名家をその婚姻政策の目標とした。彼らは一族のために、教会においても高い地位を得ることができた。領域的には、彼らはしばしばキーブルク家(ドイツ語版)のようなほかの貴族の断絶などから利益を得た[6]。1547年時点でのハプスブルク家の領土
1273年にハプスブルク伯爵ルドルフ4世(アルブレヒト4世(ドイツ語版)の子)がローマ王(皇帝に戴冠していない神聖ローマ帝国の君主)に選出されて「ルドルフ1世」として世に出た。ルドルフ1世は、1278年にボヘミア王オタカル2世をマルヒフェルトの戦いで破り、1282年にオタカル2世の所領であったオーストリア公国を息子に与え、帝国南東部に勢力を広げる。これ以降、ハプスブルク家はスイスでは徐々に領地を失ったこともあって、もっぱら軸足をオーストリア地方に移す。1308年にルドルフの子アルブレヒト1世が甥のヨーハン・パリツィーダによって暗殺された後、その子フリードリヒ美王が共同君主の地位を得たのを最後に帝国の君主位からは遠ざかり、勢力は一時衰える。しかし一族はオーストリア公として着実に勢力を広げ、やがてルドルフ4世が「大公」を自称した。
1438年にアルブレヒト2世が、次いで1440年フリードリヒ3世がローマ王になってからは王位をほぼ世襲化することに成功し、1508年にマクシミリアン1世がローマ教皇から戴冠を受けずに皇帝を名乗り始める。フリードリヒ3世の時代は皇帝とは名ばかりで権威も権力も財力もなかったが、マクシミリアン1世はヴァロワ=ブルゴーニュ家への婿入りに近い形で当時のヨーロッパ最大の富裕・繁栄を誇ったブルゴーニュ領ネーデルラント、ブルゴーニュ自由伯領(フランシュ=コンテ)を、その子世代の婚姻関係によってスペイン王国、ナポリ王国、シチリア王国などを継承し、皇帝カール5世の下でヨーロッパの一大帝国を現出させた。