ハプスブルク家の名前は、1020年代にクレトガウのラートボトによって現在のスイスに建てられた要塞、ハプスブルク城に由来する。彼の孫であるオットー2世は、この要塞の名前を初めて自分のものとし、その称号に「ハプスブルク伯爵」を加えた。1273年、ラートボト伯爵の7代目の子孫であるハプスブルク家のルドルフがローマ王に選出された。バーベンベルク家の消滅と、1278年のマルヒフェルトの戦いでボヘミア王オタカル2世に勝利したことを機に、息子たちをオーストリア公家に任命して一族の権力基盤をウィーンに移し、ハプスブルク家は「オーストリア家」の名を得て、1918年まで統治することになった。
神聖ローマ帝国の王位は、1440年から1740年に男系が絶えるまで、フランツ1世の死後は1765年から1806年の解散まで、ハプスブルク家が継続して占有している。ハプスブルク家は、ボヘミア、ハンガリー、クロアチア、スペイン、ポルトガル、ガリツィア・ロドメリアとそれぞれの植民地の王、低地とイタリアの諸公国の支配者、19世紀にはオーストリアとオーストリア=ハンガリーの皇帝、メキシコ皇帝1人を輩出している。16世紀半ば、カール5世の退位に伴い、スペインとオーストリアに分かれ、別々の領土を治めたが、両家は密接な関係を保ち、頻繁に婚姻を繰り返した。
ハプスブルク家の人々は、金羊毛騎士団と聖ゲオルギオス王立騎士団のオーストリア支部を統括している。現在の当主はカール・フォン・ハプスブルクである。 家名の「Habsburg」は、ドイツ語ではドイツ語発音: [?ha?psb??k]
呼称
主な君主位
神聖ローマ皇帝(断続的に1273年 - 1806年)、ドイツ国王[注釈 3]、ローマ王[注釈 4]
オーストリア君主(オーストリア公として1278年 - 1453年、オーストリア大公として1453年 - 1806年/1918年)
ボヘミア君主(1306年 ? 1307年、1437年 ? 1439年、1453年 ? 1457年、1526年 ? 1918年)