ハビエル・ソラナ
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2005年2月15日、ソラーナはバスクの独立性に関するイバレチェ・プラン(英語版)(バスクとスペインとの自由連合を提唱)について、欧州憲法草案に分離バスクの代表権は存在し得ないとして批判した。
NATO事務総長時代

1995年12月5日、ソラナは政治スキャンダルのために辞任を余儀なくされたウィリー・クラースの後任として NATOの事務総長に就任した。就任にさいして、過去にソラナが NATOについて批判的な発言があったとして議論を呼んだ。それを示すのがソラナが以前に著した「NATOにNOと言う50の理由」(50 Reasons to say no to NATO) という論文で、このことでアメリカはソラナを危険人物リストに掲載していた。1982年5月30日、スペインはNATOに加盟したが、その年末に社会労働党が政権を獲得したさい、社会労働党やソラナは以前からの反NATOから親NATO、親米に路線を変更した。1986年3月12日、スペインでは NATO残留の是非を問う国民投票が実施され、社会労働党とソラナは賛成運動を展開し、結果残留に賛成とする票が反対とする票を上回った。過去の反NATO活動について批判を受けた際、ソラナは「その批判はNATOの冷戦からの流れと決別する決意の表れである」として喜んでみせた。

事務総長就任直後、ソラナはボスニア紛争に関して、12月20日に国連の作戦を引き継ぎ、6万人の兵力を持つ多国籍和平履行部隊 (IFOR) が中心となるNATOの Joint Endeavour 作戦の指揮にあたった。これは前年8月と9月のNATOによるボスニア・ヘルツェゴヴィナ爆撃のあとにまとめられたデイトン合意に基づくものである。作戦遂行にあたって、ソラナは同盟欧州司令部緊急対応部隊 (ARRC) を展開した。[996年12月、ARRC は活動を再開、3万2千人の兵力を有する平和安定化部隊 (SFOR) が任務を引き継ぎ Joint Guard 作戦を展開、1998年6月以降は Joint Forge 作戦を遂行した。

ソラナの指揮の下、また冷戦後時代に対応して、NATOは政治・軍事機構を再編し、基本戦略を変更した。NATO加盟国とその交渉相手国との間で異なる要望があがる中でうまく意見を取りまとめたとして、その外交手腕が高く評価された。1995年12月にフランスがNATO軍事機構に復帰、1996年11月にはスペインも軍事機構に加わった。1997年5月27日、5か月もの長期にわたる困難な交渉の結果、ロシア外相エフゲニー・プリマコフとの間で基本文書に合意、パリで調印した。このできごとはロシアとNATO中心国との間の戦闘状態が正式に終結したことを意味するものであり、外交上重要なものである。また同日、ヨーロッパのNATO加盟国と非加盟国との関係改善を目的に、欧州・大西洋パートナーシップ理事会が創設された。7月にはマドリードで旧東側のチェコハンガリーポーランドが NATO 入りに向け協議を開始し、1999年3月12日に加盟が実現している。
コソボ紛争

ユーゴスラヴィアでの平和維持活動は困難な状況で、また活動そのものに異論が出ている中で続けられていた。IFOR、SFOR はボスニアセルビア人指導者ラドヴァン・カラジッチラトコ・ムラディッチの拘束に時間がかかっていることについて批判が集まっていた。1998年末にはセルビア共和国コソボ自治州で、セルビア政府とアルバニア系強硬派「コソボ解放軍」(KLA) との間で武力衝突が泥沼化し、1999年1月15日にはラチャク村事件が発生、アルバニア系住民45人が殺害された。NATOは両者を強制的に抑えるためには平和維持軍の投入以外に方法がないと判断した。1999年1月30日、NATOはユーゴスラヴィア空爆開始に向けた準備を行うことを発表、両者に対して武力衝突の停止を迫った。2月6日、ソラナはパリ郊外のランブイエ城で行われた両者との交渉に臨んだが、結果は不調に終わった。

3月24日、ソラナは歴史的にセルビアとつながりを持つロシアの反対を受け、国連安全保障理事会の支持をとりつけられなかったにもかかわらず、目標を軍民問わずに空爆を開始した。そのさい、空爆は「人道的見地」から必要であり、NATO の使命としてヨーロッパの平和を維持し、ボスニア紛争 (1992-1995) 時に起こった「民族浄化」を回避するためのものであると正当化した。

ソラナとNATOは空爆により民間人の犠牲が出たことで批判を受けた[1][2]4月23 - 24日、北大西洋理事会ワシントンD.C. で開かれ、加盟国首脳はNew Strategic Conceptに合意し、機構の基本防衛戦略の本質的な部分を変更、権限を拡大した。これにより以前に比べ危機的状況においてより広範囲の分野で人道的介入に着手できるようになり、NATOが紛争拡大の回避・抑制を図ることが可能となり、NATOはさらなる軍事的抑制力を持つようになった。6月10日、セルビア軍はコソボから撤退、NATO軍は攻撃を停止しコソボ紛争は終結した。同日国連安全保障理事会は決議1244を採択し、NATO、ARRC はコソボ国際安全保障部隊(KFOR)の指揮を執ることとなり、6月12日より共同でコソボの治安維持や統治にあたった。10月6日、ソラナは NATO 事務総長を2か月前倒しして退任、ジョージ・ロバートソンと交代した。
共通外交・安全保障政策上級代表時代


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