ハビエル・ソラナ
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また同じ年にソラナはコンプルテンセ大学を卒業、その後1年間はスペイン科学研究高等会議(Consejo Superior de Investigaciones Cientificas(スペイン語版), CSIC) やイギリスで研究活動を続けた。

1965年にはアメリカ合衆国へ渡り、6年間フルブライト・プログラムを活用してシカゴ大学カリフォルニア大学サンディエゴ校バージニア大学大学院と、各地の大学に留学した。特にバージニア大学大学院では、当時教授だったニコラス・カブレラ(英語版)のもとで助手となり、物理学の教鞭をとるその一方で独自研究を続けていた。また、ベトナム戦争抗議運動にも加わり、留学生協会の代表を務めた。1971年、バージニア大学から論文 Theory of the Elementary Excitation Spectrum of Superfluid Helium: the Roton Lifetime で物理学博士号を取得し、予定を1年間延長してアメリカでの研究を続けた。その後スペインに戻り、マドリード自治大学 (Universidad Autonoma de Madrid, UAM) で固体物理学の講師、1975年にコンプルテンセ大学教授となる。この間に30本以上の論文を手がける。その後1990年代初頭までに数多くの Ph.D. を受けた。
スペイン時代カール大帝賞を受賞したソラナ(中央、2007年5月17日アーヘン市庁舎において)
カール大帝賞は欧州の統合に寄与したと評価される人物に与えられる。左は1982年に同賞を受賞したスペイン国王フアン・カルロス1世。

1971年、スペインに帰国したソラーナは社会労働党の代表として民主化運動団体Coordinacion Democratica(スペイン語版)(民主勢力調整機構)に加わった。

1976年、スペイン内戦以降初めて開かれた社会労働党大会で、ソラナは連邦執行委員会書記、広報委員に選出され、その後5年間書記を務めた。また党書記長であったフェリーペ・ゴンサーレスとは親密な関係にあり、フランコ後の党の方針転換に大きな影響を与えたとされている。1976年パリ近郊のシュレンヌ、1977年スペインでそれぞれ開かれた社会主義インターナショナル大会に社会労働党代表として参加した。1977年5月20日、サルスエラ宮殿(英語版)でのフアン・カルロス1世とゴンサレスの会談に同行した。

その後コンプルテンセ大学教職員組合の代表となり、1977年6月15日、下院議員選挙に当選する。1981年2月23日、アントニオ・テヘーロ率いる治安警備隊部隊が王政復古を目指してクーデター23-F)を企て、下院を占拠する。そのときソラナも18時間身柄を拘束された。

1982年10月28日、社会労働党は下院選挙で350議席中202議席を獲得し歴史的大勝を収める。12月3日、第1次ゴンサーレス内閣で文化相に就任、およそ6年間務めたのち1988年に教育・科学相に就任する。1985年7月5日からの3年間は文化・政府報道官を兼務した。

1992年7月22日、病を患っていたフランシスコ・フェルナンデス・オルドニェス(スペイン語版)に代わり外相に就任する。この日はマドリードでの第2回イベロアメリカ首脳会議の初日前日であった。1995年11月27 - 28日、スペインは当時、欧州連合理事会議長国であり、ソラーナはバルセロナで開かれた理事会の議事進行を務め、そこで地中海地域の文化交流と経済統合へのプロセスとなるバルセロナ宣言が採択された。

閣僚を務めた13年の政治手腕から、ソラナは着実な外交力を持つと評価されていった。ゴンサレス政権後期の外相就任により、後に明らかとなった政権内の汚職や、反テロリスト解放グループ(GAL)とバスク祖国と自由(ETA)との間での紛争をめぐるスキャンダルに巻き込まれることにならなかった。1995年の暮れにかけて、ソラーナは当時ゴンサーレス政権発足当初から閣僚として残っていたが、翌年3月の社会労働党書記長選挙でゴンサーレスの有力な後継者と目されていた。ところがソラナは国際政治の舞台に飛び込んでいった。

NATO事務総長の任にあった間も、ソラーナは社会労働党やスペイン国内で政治的に活動していた。1997年6月、第36回社会労働党大会においてソラーナは執行委員会を離れ連邦委員会委員に選出され、その後3年間で2度再選された。2003年2月5日の国際連合安全保障理事会アメリカ国務長官コリン・パウエルイラク大量破壊兵器保有を主張する演説(パウエル報告)を支持したことにより、ソラーナは党書記長のホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテーロと対立することになった。サパテーロはホセ・マリア・アスナール国民党政権によるイラク戦争支持に反対していた。ソラナはゴンサレスとともに社会労働党の古い世代の代表格と見られている。2005年2月15日、ソラーナはバスクの独立性に関するイバレチェ・プラン(英語版)(バスクとスペインとの自由連合を提唱)について、欧州憲法草案に分離バスクの代表権は存在し得ないとして批判した。


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