ハバロフスク
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一方、第二次世界大戦後には満州から多くの日本人が送られ、第16収容地区(ラーゲリ)に下士官や兵が、第45特別地区には高級将校らが収容された[9]。このシベリア抑留では多くの日本軍将兵がこの近辺でも強制労働に従事させられ、その中の多くがこの地で没した。現在でも日本人墓地が維持され、近親者などによる墓参が行われている。また、一部の日本人向け観光コースにもここへの墓参が含まれている。

1956年日ソ国交回復が実現すると、1961年横浜からナホトカへの定期航路が開設された。ナホトカ港でソ連に入国した外国人旅行者は連絡列車でハバロフスクに向かうように指定された。モスクワや、ヨーロッパ方面など、ハバロフスク以遠を目指す場合でも、ここからは別の列車や航空機に乗り換える必要があった。そのため、ハバロフスクは極東経由でソ連を訪れる旅行者は必ず訪れる町となった。また、1962年には新潟市長がハバロフスクを訪問し、1965年に両市の姉妹都市提携が調印された。同年にはモスクワと共に出羽海親方を団長とした大相撲のソビエト公演が行われた。

1973年には新潟と結ぶ航空路がアエロフロートにより開設された(後に日本航空も運航)。この路線はその後長きにわたり、日本のみならず西側からソビエト極東地方へ向かう唯一の直行航空路線となっていた。同時に、新潟空港にとっても初の国際定期路線であり、同空港が北東アジアの各都市へ路線網を拡大するきっかけともなった。

ソビエト崩壊後もハバロフスクと日本との関係は深く、1993年には日本の総領事館が設置されている。また、1995年にはハバロフスク地方と友好提携関係を結んだ青森県青森空港からの定期航空路が開設され、夏季に運航されていた。なお、新潟線・青森線共に、ハバロフスクが本社のダリアビア航空が運航していたが、2008年の同航空の破綻に伴いウラジオストク航空によって新潟線が継承された。東京とは2010年よりウラジオストク航空によって成田国際空港線が定期チャーター便として運航している。このように、現在では日本との交流が盛んで、各大学では日本語教育が行われ、日本語学習者も多いことで知られている。日本へ留学する人も少なくない。

しかしながら、ここ数年の日露間の外交関係の悪化などを契機に、近年ではその活発な交流に陰りも見せ始めており、航空路線も青森や新潟からは撤退もしくは運休したままである。2009年に就航した新千歳空港を結ぶ路線も短期間で撤退した。その後、唯一成田空港との路線が継続して運航中であったが、2011年冬ダイヤでは運休[注 2]し、ハバロフスクと日本を結ぶ直行便が1973年以来初めて消滅した。しかし、2012年にはS7航空の成田空港への直行便が就航した。

2003年1月には、当時の小泉純一郎首相が、ロシア公式訪問の一環として日本の総理大臣としては初めてハバロフスクを訪問した[10]

2004年には、ハバロフスクが本拠地のロシアアイスホッケートップリーグチーム、「アムール」のリザーブチームがゴールデンアムールとしてアイスホッケー・アジアリーグに参加し、日本韓国・中国の各チームとホームアンドアウェー方式で試合を行っていたが、2005年にはチームが解散した。
姉妹都市

新潟市日本 1965年[11]

ポートランドアメリカ合衆国 1988年

ビクトリアカナダ 1990年

ハルビン市中華人民共和国 1993年

富川市大韓民国 2002年


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