山田の『なつかしい風来坊』、市川準の『会社物語 MEMORIES OF YOU』の2作品でブルーリボン主演男優賞などの賞を獲得している。作家の小林信彦は、ジャズ喫茶時代からクレージーキャッツを雑誌で取り上げ、面識ができてからは映画のブレーンもつとめた関係だが、ハナが批判的な文章をしっかりチェックしていて、初対面でいきなり詰問してきたエピソードを著書『日本の喜劇人』に記している。その後も、新作主演の後で顔を合わせると感想を迫り、言葉を選んで褒めると嬉しそうにしていたという。猪突猛進気味だが勉強熱心で要所では社会人としての礼儀はわきまえ、没後は「迷惑だが懐かしい人柄であった」と振り返っている。 晩年には「ハナが渡辺プロの社長になるのではないか」との噂もあった[2]が、これは実現しなかった。 1985年にバンド「ハナ肇&オーバー・ザ・レインボー」を結成し、死去の1か月前まで活動していた(ドラム:ハナ、トロンボーン:谷啓、ピアノ:宮川泰、トランペット:中川善弘、ベース:江藤勲、テナーサックス:稲垣次郎)。晩年のハナはドラムの修練に意を注いでいたと伝えられ、安田伸はハナの通夜の席で「ハナは技量という点では、晩年になって真のドラマーになった」という主旨の発言をした。 1991年4月29日、紫綬褒章を受章した。 1993年2月、肝細胞癌に侵されている事が判明し、肝臓の1/3におよぶ摘出手術を受ける。その後順調に回復して退院するが、8月13日、自宅で吐血し食道静脈瘤破裂の診断を受け入院した。9月8日夜から容態が急変し、9月10日午前7時3分、肝不全と肺炎により、家族、谷啓夫妻、犬塚弘らクレージーのメンバーに見守られ、東京都三鷹市の杏林大学医学部付属病院で死去した。63歳没[3][4]。最後までハナは自分が癌だということを知らされなかった。最後の入院の際は、日中には家族が付き添い、夜になると弟子であるなべおさみや元ザ・ピーナッツの2人が交代で看病し、そのたびに笑顔で「いつも済まないねえ」「おとっつぁん、それは言わない約束でしょ」と『シャボン玉ホリデー』のコントのセリフを繰り返していたという。葬儀・告別式は東京都新宿区南元町の千日谷会堂で営まれ、弔辞は森繁久彌と植木等が読んだ。弔辞の最後を森繁は「あばよ!」、植木は「ハナ…さよなら…」でそれぞれ締めた。通夜の際に、植木がグループの解散を宣言した。この発言は翌日には撤回され谷啓も否定し、名目上は2023年10月の犬塚の死去にともないメンバー全員が死去するまでクレージーは存続していたが、実態としてクレージーとしてのメンバーの活動はハナの死と共に幕を降ろす形となった。墓所は板橋区総泉寺。 死去する数か月前まで、1994年に放映されたフジテレビのドラマ『夏子の酒』の収録に参加しており、1993年7月27日(火曜日)には『徹子の部屋』の収録に臨んでいる(ハナの没後、1993年9月13日に追悼番組として放送)。『夏子の酒』は収録途中で亡くなったことから、ハナの代役に山谷初男が立てられ全面的に撮り直された。なお、収録された映像の一部は総集編やハナの追悼特別番組などで紹介されており、ハナにとってはこの映像が事実上の遺作となった。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
晩年
ギャグ
「真面目にやれ!」(クレージーの面々に向かって言うギャグ)
「アッと驚く為五郎」
「あんたかてアホやろ、うちかてアホや。ほな、サイナラ」
逸話・エピソード
出典検索?: "ハナ肇"
米国マッキントッシュ・ラボの製品を長年愛用しており、芳醇で耽美な柔らかいサウンドを好んでいた。
出演作品
映画
主演作品『足にさわった女』(1960年)
足にさわった女(1960年8月24日/大映) - 北八平太
イチかバチか(1963年6月16日/東宝) - 太田原泰平
馬鹿まるだし(1964年1月15日/松竹) - 安五郎
いいかげん馬鹿(1964年4月29日/松竹) - 海野安吉
馬鹿が戦車でやって来る(1964年12月26日/松竹) - 三郎
おれについてこい!(1965年6月20日/東宝) - 大松博文
運が良けりゃ(1966年3月19日/松竹) - 熊五郎
なつかしい風来坊(1966年11月12日/松竹) - 伴源五郎
喜劇 一発勝負(1967年8月5日/松竹) - 二宮孝吉
ハナ肇の一発大冒険(1968年1月3日/松竹) - 間貫一
喜劇 一発大必勝(1969年3月15日/松竹) - 団寅造