ハドソン郡_(ニュージャージー州)
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ニュージャージー州ハドソン郡
郡のニュージャージー州内の位置
州のアメリカ合衆国内の位置
設立1840年
郡庁所在地ジャージーシティ
最大都市ジャージーシティ
面積
 - 総面積
 - 陸
 - 水
161 km2 (62.31 mi2)
120 km2 (46.19 mi2)
42 km2 (16.12 mi2), 25.87%
人口
 - (2020年)
 - 密度
724,854人
6,058人/km2 (15,691人/mi2)
標準時東部: UTC-5/-4
ウェブサイト ⇒www.hudsoncountynj.org

ハドソン郡(: Hudson County)は、アメリカ合衆国ニュージャージー州にあるニューヨークマンハッタンに隣接している。人口は72万4854人(2020年)[1]。州内で面積最少だが、人口密度は国内でも最大級である。郡庁所在地ジャージーシティ[2]であり、同郡で人口最大の都市である。郡名は東部境界を流れるハドソン川から採られており、ハドソン川は探検家ヘンリー・ハドソンに因んで名付けられた[3]

ハドソン郡はニューヨーク都市圏に属している。
歴史
レナペ族インディアンとニューネーデルラント1634年頃のハドソン川周辺地図、右が北、ハドソン郡は牡蠣の島とされている

17世紀にヨーロッパ人が接触したとき、ハドソン郡の領域はレナペインディアン(レニ・レナペ族)の領土だった。レナペ族はハッケンザック、タッパン、ラリタン、マンハッタンと呼ばれたバンド、一族集団だった。季節によって回遊する民族であり、小規模の農業(混植)を行い、地域の地形に合わせて漁労や罠猟を行う狩猟採集型の生活だった。ヨーロッパ人とは初めから交易を行っていた。アルゴンキン語族であり、その言葉が現在の地名に多く残されている。例えば、コミュニポー、ハーシマス、ハッケンサックホーボーケンウィホーケンセコーカスベイヨンなどである。

1609年、ヘンリー・ハドソンが乗船した「ハルブ・メーン」(半月の意)をハーシマス・コーブとウィホーケン・コーブに碇泊させ、この地域の領有権を宣言した[4]。現在ノース川と呼ばれる川の西岸と、崖、丘、さらにその先の湿地には、ニューアムステルダムとほぼ同じ時期に、オランダからのヨーロッパ人(オランダ人、フランドル人、ワロン人、ユグノー)が入ってきた。1630年、マイケル・ポーが土地の権利を取得し、ハドソン川とハッケンサック川の間の土地を購入して、自分の名をラテン語化したパボニアと名付けた[5]。しかし、入植に失敗してその土地をオランダ西インド会社に返還せざるを得なかった。1633年にコミュニポー、1634年にハーシマス、1638年にポーラスフック、1643年にホーバックに家と敷地が造られていった。レナペ族との関係は弱いものであり、オランダ人がコミュニポーで行った殺人を切っ掛けにキーフトの戦争が始まった。これは北アメリカでヨーロッパ人による最初期の虐殺と見られている。この地域で襲撃と報復が2年間にわたって繰り返され、不安定な休戦で終わった。その後は1646年にコンスタブルフック、1647年にアウィハケン、さらにバーゲンネックのアクターコルなどに家と敷地が造られていった。1658年、ニューネーデルラントの総支配人ピーター・ストイフェサントがレナペ族と交渉し、この地域を買い直してバーゲンと名付けた。「ウィハッケンの上流大きな岩によって」シカケスから南のバーゲンポイント/コンスタブルフックまでの半島全体が対象だった[6]。1661年、現在バーゲン広場がある地に新しい村、駐屯地を造る認可が降り、ニュージャージーでは最古と見なされる自治体ができた。1664年、イギリスがこの地域の支配権を奪い、オランダは最終的には1674年に植民地支配権をイギリスに譲渡した。
イギリス領、アメリカ合衆国初期アレクサンダー・ハミルトンアーロン・バーの決闘

1675年、ウェストミンスター条約により、オランダからの移管が決着し、この地域はイギリス領東ジャージーのバーゲン管理地区となった。バーゲン郡が西に拡張された後、郡庁所在地はハッケンサックに移された。小さな村や農園が、川向こうで成長するニューヨーク市に物資を供給した。中でもニューヨーク湾上流の広大な岩礁から獲れた牡蠣など生鮮品が、マンハッタンのウィホーケン通りで売られた。アメリカ独立戦争時、この地域はイギリス軍の支配下に入り、ブルズフェリーの駐屯地やバーゲンネックの砦があった。植民地軍は高台を使って敵の動きを偵察した。1779年にイギリス軍の砦を急襲したポーラスフックの戦いは、革命軍の勝利と見られ、大いに士気を挙げた。ジャージーシティ中心街の多くの通りには、独立戦争時の人物の名前が付けられている。例えば、マーサーグリーンウェイン、バリックなどである。1804年、ウィホーケンは有名な決闘の場になった。アメリカ建国に貢献したアレクサンダー・ハミルトンアーロン・バーの決闘だった。ニューヨーク州との水際を巡った境界紛争で(ニューヨーク州は高潮位線までの支配権を求めた[7]。また渡し船の利権を認めた)開発が妨げられたが、ポーラスフックやホーボーケンではいくらか都会化が進み、裕福なニューヨーク市民が余暇を過ごす地点になった。モリス運河、初期の蒸気鉄道、ニューヨーク港の開発がさらなる成長を促した。1840年9月、ハドソン郡はバーゲン郡から分離し、エセックス郡の一部すなわちニューバルバドス・ネックを追加することで設立された。19世紀半ばまで、ハドソン郡は地下鉄道 (秘密結社)と一体の役割を演じた。ジャージーシティに集まる4つのルートがあった[8]
境界

ハドソン郡領域の大半は、ウェストハドソンは別として、バーゲン・タウンシップの一部だった。このタウンシップはまだこの地域がバーゲン郡の一部であるときに、ニュージャージー州に設立された最初の104タウンシップの1つとして、1798年2月21日にニュージャージー州議会の法によって設立されていた[9]。当初設立されたときのバーゲン・タウンシップは東はハドソン川、西はハッケンザック川、南はコンスタブルフックとバーゲンポイント、北は現在のハドソン郡とバーゲン郡の郡境までとされていた。その後の127年間、郡内の町の境界は様々な形を取り、1925年にユニオンシティが設立されて落ち着いた。

1820年1月28日、ニュージャージー州議会の法により、バーゲン・タウンシップ内からジャージーシティが法人化された。この市は1829年1月23日に、また1838年2月22日に再法人化され、このときにバーゲン・タウンシップとは独立し、現市名が与えられた。1840年2月22日、新しく設立されたハドソン郡の一部となった[9]。ジャージーシティが成長すると、幾つかの隣接する町が併合された。1851年3月18日のバンボースト・タウンシップ、1870年5月2日のバーゲンシティとハドソンシティ、1873年2月4日のグリーンビル・タウンシップである[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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