後にハインリヒ4世とグレゴリウス7世の間で、教会の叙任権を巡って熾烈な闘争が展開される。いわゆる叙任権闘争である。この際、改革教皇グレゴリウス7世と皇帝が対立していたことから、皇帝は改革を妨げる勢力であった、とする見解は大きな誤解である。
ハインリヒ3世や、それまでの歴代神聖ローマ皇帝に見られたように、皇帝もまた教会改革運動の推進役であった。例えば、1046年のストリ教会会議でローマ教会の内乱が収拾されたこと[15]は、ローマで教会改革運動が高まっていく重要な契機として評価できよう。
教会組織にとっても、皇帝権の強化は一定範囲までは歓迎すべきものであった。皇帝による庇護のおかげで、各地における諸侯の政治的干渉を防ぎ、自立性を保つことができる。のちに、帝国各地の中世都市が皇帝から特許状を得て、諸侯の干渉を牽制しつつ都市の自治を保とうとするが、そのこととも比較できよう。また、皇帝が諸大公の権力を弱体化させる過程で、多くの所領が教会に寄進されている。これは教会組織にとっての重要な経済的基盤となった。
ザクセン朝・ザーリアー朝を通じて行われた帝国教会体制
は、帝権の強化に貢献した。一方で、教会組織もまた強化されていった。この利害が一致した両者は、二人三脚で自らの勢力基盤を固めていったといえる。しかし、教会・教皇側にとって、皇帝が頼りがいのある庇護者であることは望ましくとも、皇帝が教会組織を完全に掌握することは決して望ましいことではない。かくして、この両者が、まだ政教分離のなされていない、聖俗入り混じったキリスト教世界の主導権を争ったのが、叙任権闘争であったともいえる。皇帝権のこれ以上の強化は、とりわけザーリアー朝の時代に入って弱体化の進んでいた神聖ローマ帝国内の諸侯にとっても憂慮すべき事態である。従って、皇帝権のこれ以上の強化を望まないという点で、今度はローマ教皇と「神聖ローマ帝国」内の諸侯の利害が一致する。後に展開される叙任権闘争は、この教皇(教会)・皇帝・帝国内の諸侯という三者の関係を通じて理解されるべきであろう。 ハインリヒ3世は1036年聖霊降臨祭の日にデンマーク王クヌーズ2世の娘グンヒルト(1020年頃 - 1038年)と結婚[16]、1女を儲けた。 1043年にアキテーヌ公ギヨーム5世の娘アグネスと再婚した[17]。 先代
子女
ベアトリクス(1037年 - 1061年7月13日) - クウェドリンブルク修道院長。
アーデルハイト(1045年 - 1096年1月11日) - ガンダースハイム修道院長。
ギーゼラ(1047年 - 1053年5月6日)
マティルデ(1048年 - 1060年5月12日) - シュヴァーベン大公・対立ローマ王ルドルフ・フォン・ラインフェルデンと結婚。
ハインリヒ4世(1050年11月11日 - 1106年8月7日) - ローマ王、神聖ローマ皇帝
コンラート2世(1052年 - 1055年4月10日) - バイエルン公(1054年 - 1055年)
ユーディト(1054年 - 1092年/1096年) - 1.ハンガリー王シャラモンと結婚。2.ポーランド公ヴワディスワフ1世ヘルマンと結婚。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 「3世」はドイツ王(東フランク王)としてハインリヒ1世から数えた数字で皇帝、イタリア王としては2人目のハインリヒ。
^ 当時はまだ神聖ローマ帝国という国号はなく、古代ローマ帝国内でローマ人と混交したゲルマン諸国及びその後継国家群の総称を漠然とローマ帝国と呼び、皇帝は古代帝国の名残であるローマ教会の教皇に任命され戴冠していた。また神聖ローマ皇帝やドイツ王は歴史学的用語で実際の称号ではない。
出典^ 成瀬他、p. 157
^ 瀬原、p. 161-162
^ a b c 成瀬他、p. 158
^ 瀬原、p. 265
^ 瀬原、p. 269
^ 瀬原、p. 271-237
^ 成瀬他、p. 161-162
^ 瀬原、p. 267-268
^ 瀬原、p. 275
^ a b c d e f 成瀬他、p. 163
^ 瀬原、p. 280
^ a b 成瀬他、p. 181
^ 瀬原、p. 283
^ 瀬原、p. 284
^ 瀬原、p. 276。グレゴリウス6世、シルウェステル3世およびベネディクトゥス9世が廃位され、新たにクレメンス2世が教皇に選ばれた。
^ 瀬原、p. 164
^ 瀬原、p. 266
参考文献
成瀬 治 他 編 『世界歴史大系 ドイツ史 1』 山川出版社、1997年
瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
関連項目
政教分離の歴史
ハインリヒ5世バイエルン公
1026年 - 1042年次代
ハインリヒ7世