1924年、国会議員に初当選し、中央党議員団の財政政策スポークスマンに就任。1925年、所得税を12億ライヒスマルクに限るという「ブリューニング法」を提出。彼自身はきわめて控えめで禁欲的な人物だったが、その専門知識から政治家としての声望が高まった。そのため1929年には党議員団長に就任。ヤング案に対して国内で増税と緊縮財政が行われる場合にのみ賛成するという立場を示したが、この首尾一貫した政策がヒンデンブルク大統領の注目を引いた。発足直後の第一次ブリューニング内閣(1930年3月31日)
前列中央がブリューニング・その右後にアダム・シュテーガーヴァルト
折しもドイツ社会民主党(SPD)のヘルマン・ミュラー首相が退陣して後任探しが行われたが、大統領の相談役でもある国防次官クルト・フォン・シュライヒャーの勧めもあり、ブリューニングに白羽の矢が立った。SPDとの大連立が模索されたが、ヒンデンブルクがSPDの政権入りを好まないこと、またブリューニングがSPDと対立するドイツ人民党との連立を最終的に決めたことから、SPD側が連立を拒絶した。1930年3月28日、ヒンデンブルク大統領は正式にブリューニングに組閣を指示、組閣作業は異例の速さで進み4月1日に完了した。
第一次ブリューニング内閣
1930年5月1日 - 1931年10月9日
首相ハインリヒ・ブリューニング中央党
副総理ヘルマン・ディードリヒ
連立に加わったのは中央党のほかドイツ国家党、ドイツ人民党、経済党、そしてドイツ国家人民党の一部だった。首相就任時の44歳という年齢はドイツ史上2番目の若さである。ヒンデンブルクは議会に対立する強力な半独裁政権、そして反マルクス主義的な政権が樹立されることに期待した。 内閣最初の課題は世界大恐慌の直撃を受けた財政の立て直しであった。ヤング案はドイツに対して賠償金支払いと同時に通貨安定化を要求していたので、通貨切り下げに踏み切った。さらに1930年6月から財務相代理として支出削減案を提出したが、ヒンデンブルクの思惑とは裏腹にブリューニングはドイツ国家人民党の切り崩しに失敗し、この案は議会で否決された。ブリューニングはヴァイマル憲法第48条をたてに法案を通過させたが、SPD、ドイツ共産党、そしてナチ党が議会多数勢力を以てこの決定を覆した。この事態にヒンデンブルクは議会を解散させた。それに伴う総選挙でブリューニングは無党派層の掘り起こしを狙ったが、その結果はナチ党と共産党という左右両極の躍進だった。ナチ党の第二党への躍進に、ドイツの格付けが暴落して外国からの投資が引き上げられ、経済不振がさらに続くことになった。議会の翼賛化を狙ったヒンデンブルクの解散命令は完全に裏目に出た。 ブリューニングは正常な議会運営が困難なため、62にも上る法案を議会に縛られない緊急立法として通過させた。その都度ナチ党と共産党が法案を無効とする動議を提出したが、ブリューニングはSPDの閣外協力を得てその動議を退けた。SPDはブリューニングを支持したわけではなかったが、ナチ党と共産党に対抗するため協力的な行動をしていたのである。しかしブリューニング内閣のSPDとの妥協頼みの政権運営という状況に、ヒンデンブルク大統領は不満を持っていた。 ブリューニングはこうした緊急法規で緊縮財政とデフレーション政策を進め、新税導入と同時に国家支出を減らし、また給与減に誘導してドイツの輸出力を高めようと試みたが、外国も同様の政策をとり関税を上げたため、効果はなかった。こうした無為な経済政策は、一方ではドイツの支払い能力のなさを示すことで、連合国に賠償金支払いを停止してもらう目的もあったとする説もあるが、現在では疑われている。ブリューニングや閣僚は、賠償金支払いさえなければドイツ経済は好転すると見ており、財政建て直しは可能と信じていたようである。外相として長らくドイツ外交を担い、ノーベル平和賞も受賞したグスタフ・シュトレーゼマンを失った痛手を、ブリューニング内閣は蒙ることになる。 1931年、オーストリアと関税同盟を結ぼうとしたが、両国の合併を恐れるフランスがこれに猛反対して国内銀行にドイツやオーストリアからの資金受け入れを禁止し、ドイツの銀行は苦境に陥った。さらに同年ブリューニングが、賠償金支払いは「貢納」であり、ドイツには最早支払う能力がないとする政府声明を発表したため、ドイツ経済のさらなる評価格下げを招いて外資の引き揚げが進み、経済は恐慌寸前になった。同年6月、傷病兵や失業者に対する保険をカットする緊急法令が発効し、各都市では主に共産党が組織したデモ行進が頻発するようになった。こうした事態にブリューニングは一旦ヒンデンブルクに辞表を提出するがヒンデンブルクは再度ブリューニングに組閣を命じた。 第二次ブリューニング内閣
混乱
退陣ヒンデンブルク大統領の応援演説を行うブリューニング
1931年10月10日 - 1932年5月30日
首相兼外務大臣ハインリヒ・ブリューニング中央党
副総理兼財務大臣ヘルマン・ディードリヒドイツ国家党
国防大臣兼内務大臣事務取扱ヴィルヘルム・グレーナー無所属
経済大臣ヘルマン・ヴァルムボルト
(- 1932年5月5日)無所属
エルネスト・トレンデレンブルク
(事務取扱)ドイツ国家党
労働大臣アダム・シュテーガーヴァルト中央党
法務大臣クルト・ジョエル無所属
郵政大臣ゲオルク・シュッツェルバイエルン人民党
交通大臣ゴットフリード・トレビラヌス保守人民党
農業・食糧大臣マルティン・シーレキリスト教国家農民及び農村住民党
無任所大臣ハンス・シュランゲ=シェーニンゲン(ドイツ語版)
(1931年11月5日 -)キリスト教国家農民及び農村住民党
アメリカ大統領ハーバート・フーヴァーは賠償金支払い猶予を債権各国に提案し、受け入れられた(フーヴァーモラトリアム)。しかしドイツからの投資引き揚げはおさまらず、失業者は600万人を越え、全ての大銀行が数日間閉鎖を余儀なくされる有様であった。イギリスはドイツの信用が崩壊するのを防ぐという理由で賠償金の減額に応じてこなかったが、結局1932年のローザンヌ会議で減額が決められた。
結果的にブリューニングは予定とは違った成り行きで賠償支払い義務の緩和に成功した訳だが、ヒンデンブルクはもはやブリューニングへの支持を失っていた。4月にヒンデンブルクは大統領に再選されたが、対抗馬だったナチ党のアドルフ・ヒトラー候補に、忌み嫌っていたカトリック教徒(中央党)や社会主義者 (SPD) の力を借りて辛勝したことにいたく自尊心を傷つけられ、ますます右傾化したためである。