ハインリヒ・ハイネ
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ドイツでの文筆生活

すでに学生時代より50以上の雑誌に寄稿を行なっていたハイネは職業作家、ジャーナリストとしての活動をはじめた。大学終了後はまずノルデルナイ島で休養を取り、その後両親の住むリューネブルクを訪れたのち、ハンブルクに移住した。1826年よりハンブルクのカンペ書店から『旅の絵』の刊行を開始し、1827年には没年まで13版を重ねた代表詩集『歌の本』を同書店より刊行している。

1827年にミュンヘンに移るが、この旅上、カッセルグリム兄弟と、フランクフルトルートヴィヒ・ベルネと知己を得ている。ミュンヘンではコッタ出版の『新一般政治年鑑』編集者となり、またハイネの多くの詩に曲をつけることになるロベルト・シューマンと親交を結んだ。その後、1829年にベルリンへ転居する。その間にイギリスオランダ(1827年)、イタリア(1829年)、ヘルゴラント島(1830年)を旅行し、それらの体験は『旅の絵』や『イギリス断章』などの作品に結実する。

1830年よりサン=シモン主義に親しむようになるが、著作中の政治批判や社会批判により、次第にドイツ当局から監視の目を向けられることになった。
フランス時代妻マチルド・ハイネ

ハイネはフランス移住を決意し、1831年5月に終生までの住処となるパリに移った。ハイネはフランス時代に多くの著名な芸術家、文学者やサン=シモニストと交流を持っており、その中には作曲家エクトル・ベルリオーズフレデリック・ショパンフランツ・リストジョアキーノ・ロッシーニフェリックス・メンデルスゾーンリヒャルト・ワーグナー、作家オノレ・ド・バルザックヴィクトル・ユーゴージョルジュ・サンドアレクサンドル・デュマらが含まれる。

1832年、ゲーテの死を受けて「文学の決算書」として『ドイツ近代文学の歴史のために』を執筆した。このころより青年ドイツ派の作家ハインリヒ・ラウベと交流を持つようになるが、1835年にドイツ連邦議会により青年ドイツ派の出版が禁止され、ハイネは彼らの筆頭に上げられてしまう。1839年、ルートヴィヒ・ベルネの死をうけて『ベルネ覚書』に取り組む。1841年、クレッサンス・ユージェニー・ミラー(愛称マチルド)と結婚する。

1843年、パリで25歳のカール・マルクスと親交を結び、1845年のマルクスの出国まで頻繁に会う。マルクスはハイネの『ドイツ冬物語』(13年ぶりのドイツ旅行を題材にしたもの)の出版の手助けをするなど援助に努め、ハイネもマルクスに多くの詩を読み聞かせて意見を求めた。1844年、シレジアの窮乏した織物工が起こした蜂起を題材にした時事詩「貧しき職工たち」(のち「シレジアの職工」)を『フォーアベルツ』誌に発表、社会主義者の機関紙でフリードリヒ・エンゲルスの激賞を受ける。同年『新詩集』を刊行する。独仏間の橋たらんとして執筆してきたハイネは、1840年代のフランス・ナショナリズムのライン左岸に対する領土要求に反対する一方、アルザス・ロレーヌ地方の帰属については、「その地の住民が自由と平等の理念によってフランスに結びついていることへの配慮をドイツの読者に要請した」[1]。 晩年のハイネを訪れるムーシュ(ハインリヒ・レフラー作)

1844年に生涯ハイネを援助していた叔父ザロモン・ハイネが死去し、ハイネを含めた親族間で激しい遺産争いが起きる。この争いは、1847年に甥のカールがパリのハイネを訪れて合意が成立するまで続いた。このころよりハイネは麻痺(多発性硬化症梅毒だと考えられている)にかかって健康状態が急速に悪くなり、1846年にはドイツでハイネ死去の誤報が流れた。1848年には体半分が動かなくなり、5月のルーブル美術館訪問を最後に外出ができなくなった。この頃から、当時のベストセラー作家にして女性解放運動の先駆者ファニー・レーヴァルト(Fanny Lewald, 1811-1889)との交流が始まる。彼女の手紙や回想録は、「瀕死の状態にあったハイネの身体的、精神的状況を知る上で」貴重な記録である[2]。1851年、『歌の本』『新詩集』とともに三大抒情詩と呼ばれる『ロマンツェーロ』を刊行する。1855年、病床のハイネのもとにムーシュ(蝿)の愛称で呼ばれたエリーゼ・クリニッツ(Elise Krinitz ;作家としてのペーネーム:Camille あるいは Camilla Selden)という若い女性がたびたび訪れるようになり、翌年の死去まで最晩年の詩人と交流をもった。ハイネは1856年2月17日に亡くなり、モンマルトル墓地に埋葬された。妻マチルドは1883年に死去した。2人に子供はいなかった。
遺産

ハイネの詩には多くの音楽家から曲が付けられており、とりわけ『歌の本』の詩からは多くの歌曲が生まれている。1838年にフリードリヒ・ジルヒャーによって曲が付けられた「ローレライ」(『歌の本』収録)はよく知られており、ナチス時代にはハイネの著作は焚書の対象になったが、この詩だけは作詩者の名前が抹消されて歌われていた。フランツ・リストクララ・シューマンもこの詩に曲を付けている。

またミュンヘン時代より交流のあったロベルト・シューマンは、『歌の本』に収録された作品群から『詩人の恋』『リーダークライス作品24』『二人の擲弾兵』などの歌曲を作っており、フランツ・シューベルトの歌曲集『白鳥の歌』もこの詩集のなかの「帰郷」から詩がとられている。フェリックス・メンデルスゾーンが作曲した「歌の翼に」なども『歌の本』からの詩である。ほかにツェーザリ・キュイがハイネの悲劇をもとにオペラ『ウィリアム・ラトクリフ』を作曲している。ハイネは、晩年の彼と交流した、当時のベストセラー作家にして女性解放運動の先駆者ファニー・レーヴァルト(Fanny Lewald, 1811-1889)から、彼の「ローレライ」がジルヒャーによって作曲されていることを知り、ロベルト・シューマンによって作曲された「君は花のごとく」(Du bist wie eine Blume)などとともに、ドイツでは民謡のように歌われていると聞いて喜んだという[3]

日本では、森?外が翻訳したのを始め、明治時代より多数の著書が翻訳されており、萩原朔太郎佐藤春夫など多くの詩人に親しまれた。

ハインリヒ・ハイネ学会提案に基づき、1972年デュッセルドルフ国際ハイネ会議(Internationaler Heine-Kongres 1972 in Dusseldorf)にむけて編集発行された、ハイネ生誕 175 周年記念アンソロジー『告白 現代の作家たちの心の中のハイネ』(Wilhelm Gossmann u.a.(Hrg.): Gestandnisse: Heine im Bewustsein heutiger Autoren. Dusseldorf: Droste Verlag 1972)には90人の作家がエッセー等を寄せている。例えば、 トーマス・マンの息子で著名な歴史家のゴーロ・マン(Golo Mann)は、「ドイツの少なくない数の詩人たち無しにでも私は自分のことを思い浮かべることができるでしょう。例えば、ヘルダーリン 無しにでも。・・・たぶんゲーテ無しにすら、できるでしょう。ハイネ無しにはそうならないのです。これは血肉化しているのです。これはみずらの同一性の一片となっているのですから」と述懐している。また、ギュンター・グラスは編者ゲスマン(1973年- 1983年ハインリヒ・ハイネ学会長)とのインタビューにおいて、「私にとって彼は、 ヨーロッパ 啓蒙主義の伝統の中に立つ人なのです。そしてこの啓蒙主義の栄光と悲惨をもろもろの可能性や限界で、また、あまりに明示するというその内在的な危険、つまり論争癖で体現しているのです」と語っている[4]

『ドイツ冬物語』は、ドイツの有力週刊新聞ディー・ツァイトの「名著100選」(1980)の一つに取り上げられ、ヴォルフ・ビーアマンがエッセーを寄せている[5]

ハイネは親友モーゼス・モーザー(Moses Moser; 1797-1838)宛の書簡(1825年10月8日付け)において、≪Gollownins Reise nach Japan≫(ゴロヴニンによる『日本幽囚記』)を薦めて、この本からは、日本人が地球上で最も文明化した、最も洗練された民族(≫das civilisirteste, urbanste Volk auf der Erde≫)であることが読み取れる、私は日本人になりたい(≫Ich will ein Japaner werden.≫)、と書いている[6]
主要著書モンマルトルの墓地にあるハイネの胸像ローレライをモチーフにしたハイネの記念碑(ニューヨークブロンクス区


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