アクンザダの父親はモスクのイマームであり、家族は非政治的で隠士のような生活を送っていた。アクンザダの家族は礼儀正しいものの、外向的でなく、部族の集会や会議に参加したことはなかった[6]。 1979年のソ連侵攻で激化したアフガニスタン内戦の戦火は当時アクンザダが住んでいた村まで及んだ。アクンザダはパキスタンの都市クエッタへ避難したと言い伝えられている[3][6]。1980年代、パキスタンでイスラームの知識、特に預言者ムハンマドの言行録であるハディースの知識を深め、「シャイフ・アル・ハディース」の肩書きを得た[3]。 1994年にターリバーンへ加入した[6]。 1996年にターリバーンがアフガニスタン全土を掌握してアフガニスタン・イスラーム首長国を樹立するとシャリーア法廷の裁判官を務め、ナンガルハール州軍事法廷の裁判長や最高裁判所の副裁判長を歴任した[6]。アクンザダは政権内で宗教問題を担当する幹部として名声を高めた。また、同国で発行されたファトワーの大半は彼が発行したと言われている。宗教学者として評判がとても高かったため、他のタリブからイスラム法学者および精神的指導者として尊敬され、時のアミール・アル=ムウミニーンであるムハンマド・オマルから師範として仰がれていた[6]。 米国を中心とする有志連合によるアフガニスタン侵攻で政権が崩壊した後は、アフガニスタン国内に潜伏していたとされる[7]。また、パキスタン・バローチスターン州の多数のマドラサを指導しているとされる[8]。 2016年5月21日にターリバーン第2代最高指導者アフタル・ムハンマド・マンスールがアメリカ軍の空爆で死亡したのを受け、25日に第3代最高指導者に就任した[1]。ターリバーンの発表によると、アクンザダはマンスールの代理人として活動しており、生前のマンスールから後継指名を受けていたという[9]。最高指導者の座に就いたアクンザダには、2016年以降ターリバーン内にあった内紛後の、組織の結束が委ねられた[10]。 2016年、アルカーイダ最高指導者のアイマン・ザワーヒリーはアクンザダに忠誠を誓い、「信徒の長(アミール・アル=ムウミニーン)」と呼んでいる[11]。 2017年、息子のアブドゥル・ラフマンがヘルマンド州のゲレシュクにて、欧米諸国の傀儡とみなされた共和国政府軍に対し、自爆攻撃を敢行し殉教した[12]。 米軍撤退開始に伴い2021年5月に始まった攻勢により8月15日には首都カーブルが陥落し、事実上ターリバーンがアフガニスタンの全権を掌握することとなった。ターリバーン幹部のワヒードラ・ハシミ(Waheedullah Hashimi)はアフガニスタンは評議会(シューラ)により統治され、評議会議長が大統領のような役割を果たし、アクンザダは評議会議長の上に立つ公算があると述べた[13]。9月7日のタリバンによる暫定政権発足の際にアクンザダ名義で国民に声明を発表し、新政権においてはイスラムの規則及び法を遵守していく、とした[14]。
ソ連侵攻
ターリバーン裁判官
連合軍の侵攻
政権奪還後詳細は「2021年ターリバーン攻勢」を参照
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