ハイチ革命
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この地域はグラン・ブラン(grand blancs、偉大な白人)と呼ばれる富裕な白人植民者の地盤であり、特に経済に関しては大幅な自治権を望んでいたので、好きなように振舞うことができた[12]

1789年にはサン=ドマングには4万人のフランス人植民者がいたが、ヨーロッパ生まれのフランス人が行政上の地位を独占していた。砂糖農園主グラン・ブランの多くは少数貴族であった。多くの者は黄熱病を恐れて、できるだけ早くフランスに戻った[13]。貧乏な白人プティ・ブラン (petit blancs) は職人、商店主、奴隷交易者、監督者および日雇い労働者であった。サン=ドマングのムラートは1789年時点で2万8千人を数えた[14]
フランス革命の衝撃

白人、カラードおよびアフリカ生まれの奴隷である多数の黒人の間で、奴隷所有者によって助長された人種間紛争以外にも、島は北部、南部および西部の地域間競争意識によって分裂していた。これに加えて、富裕な白人農園主、貧乏な白人、自由黒人(カラード)および奴隷という階級間紛争と、独立指向者、フランスに忠実な者、スペインの同盟者、およびイギリスの同盟者の間の紛争もあった。フランス本国では、国民議会と呼ばれる諮問機関がフランスの法律を急激に変えており、1789年8月26日人権宣言を出版して全ての人の自由と平等を宣言した。フランス革命はハイチの抗争にも影響を与え、初めは島中で広く受け入れられた。フランスの指導層には多くの紆余曲折があったが、ハイチ自体でもそれが捻じ曲げられ、様々な階級と党派がその連衡を何度も変えた。

島のアフリカ人大衆は、島の海外貿易に対するフランス本国の規制を不快に思っていた富裕なヨーロッパ人農園主による独立の扇動について漏れ聞くようになった。この階級はほとんどがフランスの王党派やイギリスに組していた。というのも、もしサン=ドマングの独立が白人奴隷所有者によって成されたときは、プランテーション所有者はフランスの貴族に対して少しの責任も無く好きなように奴隷制度にあたるであろうから、アフリカ人大衆には過酷な待遇と不当な取り扱いが増えると考えられたからである。[12]

サン=ドマングのカラードであり最も知られたジュリアン・レイモン(英語版)は、1780年代以降白人との完全な平等をフランス本国に積極的に訴えていた。ジュリアン・レイモンはフランス革命を利用して、フランス国民議会にこのことを植民地の主要な問題であると投げかけた。1790年10月、植民地の別の富裕なカラードであるヴァンサン・オジェ(英語版)がレイモンと共に働きかけを続けていたパリから島に戻った。フランス国民公会によって成立したあいまいな法律によって、彼自身のような富裕なカラードにも完全な市民権が与えられていることを確信したオジェは参政権を要求した。植民地の知事がこれを拒んだ時、オジェはカプ=フランソワ周辺で短期間の反乱を率いたが、捕まえられ1791年早くに残酷に処刑された。オジェは車輪に縛り付けて体の自由を奪われ、槌で殴打し死ぬまで放置された[7]。オジェは奴隷制に反対して戦ったのではなかったが、この処置が奴隷達に1791年8月の蜂起と植民地人との契約に対する抵抗を決断させる要因の一つとなったと、後に奴隷の反逆者達によって証言された。一般にこの時点までの紛争は白人の党派間、あるいは白人とカラードの間のものであり、黒人奴隷は傍観者の立場にあった[4]
戦闘の推移
1791年、奴隷の反乱

奴隷達は反乱に加わると予想されていなかった。しかし、1791年8月22日に突然、ブードゥーの高僧デュティ・ブークマンが奴隷たちに動員令を発して大規模の奴隷蜂起が起こり国中が内戦状態となった。肥沃な北部平原地域の何千という奴隷がその主人に対する報復とその自由を戦い取るために立ち上がった。10日間のうちに、白人の支配地域は幾つかの孤立した砦のみとなり、北部地域全体を前例の無い奴隷の反乱で支配することとなった。次の2ヶ月間で暴動は拡大し、2,000名の白人を殺し、280箇所の砂糖プランテーションを焼いて破壊した[15]。一年以内に島は革命の渦に巻き込まれた。奴隷達は労働を強制されていたプランテーションを焼き、主人、監督者および他の白人を殺した[12]
スペインの介入

反乱の指導者であるジャン・フランソワとジョルジュ・ビアスーが島の東側のスペイン植民地サントドミンゴの王党派寄り当局と同盟したためスペイン軍が侵入し、大きな混乱が進行した。北部のプランテーションで始まった奴隷の反乱は植民地中に混乱を拡げた。最終的に1792年4月4日、フランス議会が肌の色に関係なくフランス植民地の全ての自由人の平等を宣言した。レジェ=フェリシテ・ソントナ(英語版)に率いらせた使節団をサン=ドマングに派遣し植民地当局を従わせようとした。[4]一方でソントナは1793年8月29日奴隷制度の廃止を宣言した。
トゥーサンの指導トゥーサン・ルーヴェルチュール

黒人の最も成功した指揮官の一人がトゥーサン・ルーヴェルチュールであり、独学で思想などを修めた元家事奴隷であった。トゥーサンの軍事的指導の下で反乱を起こした奴隷達はフランスに対して優位に立ち、サン=ドマングの大半を手に入れることができた。フランスの将軍エティエンヌ・ラヴォー(フランス語版)は1794年5月にトゥーサンがフランス軍に付いてスペインと戦うよう説得した。

しかし、トゥーサンは島を支配下に入れた後もフランスに屈服するつもりは無く、自治政体として島を効果的に支配した。トゥーサンはレジェ=フェリシテ・ソントナ、アンドレ・リゴー、およびエドゥヴィル伯爵(英語版)といったライバルに対する支配権を巡る権力闘争に打ち勝った。エドゥヴィル伯爵はリゴーとトゥーサンの間に越えがたい楔を打ち込んだ後で、フランスに逃げ帰った[16]。トゥーサンは1798年にはグレートブリテン王国の遠征隊を破り、隣のサントドミンゴまでも侵略し、1801年までにそこの奴隷を解放した。
サン=ドマング出兵

1801年、トゥーサンはサン=ドマングの憲法を発行し、自治政府を作ることとトゥーサン自身が終身総督になることを定めたため、ナポレオン・ボナパルトはトゥーサンを収益の上がる植民地としてのサン=ドマングの回復の障害と看做した。奴隷制の再導入を否定してはいたが、1802年にはナポレオンの義弟のシャルル・ルクレール率いる遠征軍がサン=ドマングの再支配を試みた(サン=ドマング出兵(英語版))。フランス軍にはアレクサンドル・ペションおよびアンドレ・リゴーが率いるムラートの軍勢も加わった。リゴーは3年前にトゥーサンに敗れていた。ジャン=ジャック・デサリーヌのようなトゥーサンに近い同盟者がフランス軍に逃げた。トゥーサンは残っている軍隊を連れてフランス軍に投降すれば自由を保障されると言われた(スネーク・ガリーの戦い(英語版)、ハイチ語: Batay Ravin Koulev)。トゥーサンは1802年5月にこれに同意したが、これが偽計であり、捕まえられて船でフランスに運ばれ、ジュー要塞(英語版)(ドゥー県)に収監されている間(1803年)に死んだ[7]
新指導者デサリーヌ

数ヶ月の間、島はナポレオンの支配の下で平穏であった。しかし、フランスが奴隷制を復活させようとしていることが明らかになると、デサリーヌやペションが1802年10月に反旗を翻し、フランスと戦った。11月、ルクレールは黄熱病で死んだ。フランス軍兵士の多くも黄熱病で死んだ。ルクレールの後継者ロシャンボー子爵は、その前任者よりも残忍なやり方で戦った。ロシャンボーの残虐行為によって、元のフランス王党派の多くが反乱軍の側に付いた。
サン=ドマング海上封鎖

フランス軍はイギリス海上封鎖によって勢いを弱められ(サン=ドマング海上封鎖(英語版))、またナポレオンは要請された大量の援軍を送ることに躊躇した。ナポレオンは1803年4月にアメリカ合衆国ルイジアナ植民地を売却し、西半球における事業に対する興味を失っていった。デサリーヌは反乱軍を率い、終に1803年、フランス軍を打ち破った[7]
ヴェルティエールの戦い

ハイチ革命の最後の戦い、ヴェルティエールの戦い1803年11月18日カパイシャン近くで起こった。ハイチ反乱軍はデサリーヌが率い、フランス植民地軍はロシャンボー子爵が指揮した。ヴェルティエールの戦いの結果、1804年1月1日デサリーヌらは、サント・ドミンゴ(現ドミニカ共和国)も併せてハイチの独立をゴナイーヴで宣言した。サン=ドマング遠征の影響は、特に人命に及んだ。革命の直前の島の人口は、およそ550,000人であり、1804年には300,000人となっていた。サン=ドマングを失ったことはフランスとその植民地帝国にとって大きな打撃となった。
結果
自由の共和国


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