ノーム・チョムスキー
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マサチューセッツ工科大学言語学および言語哲学の研究所教授 (Institute Professor) 兼名誉教授[5]。妻は言語学者教育学者キャロル・チョムスキー(2008年死没)。
来歴
1928年の生誕から1945年まで

ノーム・チョムスキーは1928年12月7日、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアのイースト・オーク・レーン(英語版)近郊で生まれた[6][7]。父ウィリアム・チョムスキー(英語版)は当時ロシア帝国支配下のウクライナで生まれたが、戦乱を避けて1913年にアメリカへ渡った。メリーランド州ボルチモア搾取工場で働き、貯蓄してジョンズ・ホプキンス大学で学んだ甲斐もあり市のヘブライ人系小学校教師の職を得た。現在のベラルーシで生まれアメリカで育ったエルシー・シモノフスキーとの結婚を期にフィラデルフィアに移り、夫妻はミクッバ・イスラエル宗教学校で教鞭を取った。「とても温和で紳士、そして魅力的な人物」と評された[8] ウィリアムはここの校長にまで出世し、1924年にはユダヤ系教員養成大学では合衆国最古であるグラッツ大学(英語版)の教授に就任、1932年からは教授長職を勤めた。1955年からはDropsie Collegeでも教鞭を取ったウィリアムは、別に中世ヘブライ語の研究にも取り組み、一連の著作も発表した[9]

ノーム・チョムスキーは夫妻初の子供として生まれた。5年後に生まれた弟デビッドとは仲が良い兄弟だったが、気楽な弟に対し兄は負けず嫌いの性格だった[10]。両親の母語イディッシュ語だったが、それを家庭内で使う事は戒められた。夫と異なり、エルシーはごく普通のニューヨーク訛りの英語(英語版)を喋った[7]。兄弟はユダヤ人社会で育ち、ヘブライ語を習い、アハド・ハアムの著作など労働シオニズムに影響を受けていた一家にあって、よくシオニズムの政治理論について語り合った[10]。子供の頃からユダヤ人として、特にフィラデルフィア在住のアイルランド系やドイツ系共同体から受ける反ユダヤ主義に直面し、ナチス・ドイツのフランス侵攻を祝うドイツ人のビア・パーティは忘れられないものとなったという[11][12]

ノームは両親を、政治的にはフランクリン・ルーズベルト率いる民主党を支持する中道左派だと言及したが、彼自身は国際婦人服労働組合(英語版) (ILGWU) に所属する社会主義者の親族らから影響を受けて極左思想を持つようになった[13]。また特に、あまり教育を受けていなかったがニューヨークで所有する新聞販売スタンドで集まった左派ユダヤ人たちと毎日のように議論を交わす彼のおじに大きく影響された[14][15]。一家で街中に出かけると、ノームは左翼アナキスト系の書店に行っては政治に関する本を熱心に読んだ[14][15]。後に振り返って彼は無政府主義思想と出逢えた事は「幸運なる偶然」であり、急進党を制御して平等な社会を実現する選択肢だと信じられていたマルクス・レーニン主義という他の急進的左翼思想に対する批判的態度を形成することができたという[16]

ノームは初等教育を、競争をさせず生徒の興味を伸ばす事に重点を置き設立された独立系のOak Lane Country Day Schoolで受けた。ここで10歳の時、彼はスペイン内戦によるバルセロナ陥落を受けてファシズムの拡散を取り扱った初めての記事を書いた。12-13歳の頃にはそれまで以上に無政府主義政治への傾倒を強めた[17][18]。12歳の時にCentral High Schoolの中等部へ進学し多くのクラブや共同体に参加したが、そこでの階層的で厳しい管理が行き届いた指導方法に当惑させられた[19]
大学時代:1945年から1955年までの10年


アナルコ・サンディカリストルドルフ・ロッカー(左)とイギリス人社会民主主義者ジョージ・オーウェル(右)。若きチョムスキーはふたりから強い影響を受け、アナルコ・サンディカリストは実現可能かつ望ましいものという考えを持った。

高校卒業後の1945年ノーム・チョムスキーはペンシルベニア大学へ進学し、C・W・チャーチマン(英語版)やネルソン・グッドマンらから哲学を、ゼリグ・ハリスらから言語学を学んだ。ハリスの講義は、ノームに言語構造の線型写像(文章の中の部分的な集まりから他の集まりへの対応付け)といった解析法の発見をもたらした。1951年の修士論文『The Morphophonemics of Modern Hebrew (現代ヘブライ語における形態音素論)』で、彼は形態音素の規則を示した[20]。そして1955年、ペンシルベニア大学大学院博士課程を修了し、言語学博士号を取得した。

1951-55年にチョムスキーはハーバード大学のジュニアフェロー[注 1]に選ばれており、その研究が「生成文法論」に結実した。その後1955年からMITに勤務した。

チョムスキーはニューヨークを訪れては、イディッシュ語の無政府主義系雑誌『フライエ・アルバイテル・シュティンメ(英語版)』の事務所へ頻繁に足を運び、同誌に寄稿していたアナルコ・サンディカリストルドルフ・ロッカーに傾倒する。後に記したところによると、ロッカーの仕事から無政府主義と古典的自由主義の関係に気づき、後に研究の対象にしたという[21]。他にも、政治思想家では、アナキストのディエゴ・アバド・サンティラン(英語版)や社会民主主義者のジョージ・オーウェルバートランド・ラッセル、ドワイト・マクドナルド(英語版)、また非ボリシェヴィキマルキシストのカール・リープクネヒトカール・コルシュローザ・ルクセンブルクらの著作を精読した[22]。これらに目を通す中で、 チョムスキーはアナルコ・サンディカリスト社会に共感し、オーウェルの著作『カタロニア讃歌』で知ったスペイン内戦の期間に結成されたアナルコ・サンディカリスト共同体に惹かれるようになった[23]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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