ノーベル賞
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受賞者がメダルを売却する事例もあり、1962年に生理学・医学賞を受賞しフランシス・クリックは死後の2013年[33]、共同受賞者のジェームズ・ワトソンは経済的な理由から2014年、2021年に平和賞を受賞したドミトリー・ムラトフ所有のメダルが2022年、それぞれオークションを通じて第三者に譲渡された[注 2][35][36]
科学史としてのノーベル賞

前述のようにノーベル賞の自然科学分野における受賞者は欧米の研究者を中心としており、1920年代に日本人の山極勝三郎がノミネートされた際には、選考委員会で「東洋人にはノーベル賞は早すぎる」との発言があったことも明らかになっている[注 3]。また、元国連大使松平康東は、1930年代に呉建がノミネートされた際には日本枢軸国であったことで受賞に至らなかったとしている[37]。欧米以外の国で研究活動を行った非欧米人では、1930年にインド人のチャンドラセカール・ラマンが物理学賞を受賞したのが最初である。日本人である湯川秀樹(1949年受賞)、朝永振一郎(1965年受賞)らがやはり物理学賞で受賞している。
受賞条件と辞退

ノーベル賞は受賞者が自然人の場合、「本人が生存中」が受賞条件だが、かつてはノミネート時点で生存していれば受賞決定時に死亡していてもよいこととされており、そのケースに当てはまる受賞者には、1931年文学賞のエリク・アクセル・カールフェルトと、1961年平和賞のダグ・ハマーショルドがいる。1973年から、10月の各賞受賞者発表時点で生存している必要があるが、その後死亡しても取り消されないことになり、その規定により1996年経済学賞のウィリアム・ヴィックリーは授賞式前に亡くなっても受賞が取り消されなかった。2011年生理学・医学賞のラルフ・スタインマンは受賞者発表の直後に当人が3日前に死亡していたことが判明したが、これには受賞決定後に本人が死去した場合と同様の扱いをし、変更なく賞が贈られることになった。
辞退

これまでにノーベル賞の受賞を辞退したのは、以下のとおりである。

ジャン=ポール・サルトル(1964年文学賞辞退) - 公的な賞はどれも辞退してきた[38]

レ・ドゥク・ト(1973年平和賞辞退)- ベトナムにまだ平和が訪れていないからという理由で辞退

ゲルハルト・ドーマク(1939年生理学・医学賞辞退) - ナチス政府の圧力

リヒャルト・クーン(1938年化学賞辞退) - ナチス政府の圧力

アドルフ・ブーテナント(1939年化学賞辞退) - ナチス政府の圧力

ボリス・パステルナーク(1958年文学賞辞退) - ソ連政府の圧力

ドーマクは戦後の1947年、クーン、ブーテナントは1949年、パステルナークは没後に遺族が賞を受け取ったとされているため、最終的に受け取らなかったのは前者2名である。
評価と論争詳細は「ノーベル賞を巡る論争」を参照

ノーベルの遺言により、平和賞の選定はスウェーデンの機関ではなくノルウェー国会に委任されている。理由は諸説ありはっきりしないが、当時のスウェーデンとノルウェーは同君連合を組んでいたこと、そして当時のノルウェーには自主的外交権がなかったために平和賞の選考には常に中立性が期待できたことなどが理由と考えられている[39]

1929年の生理学・医学賞はビタミンB1の発見によりオランダクリスティアーン・エイクマンに贈られているが、エイクマンは米ぬかの中に脚気の治癒に効果のある栄養素(ビタミン)が存在することを示唆したにすぎず、実際にその栄養素をオリザニンとして分離・抽出したのは日本の鈴木梅太郎である。

1926年の生理学・医学賞は寄生虫によるガン発生を唱えたデンマークヨハネス・フィビゲルに贈られ、同時期に刺激説を唱えていた山極勝三郎が受賞を逃している。後年、フィビゲルの説は限定的なものであるとして覆されている。

ポルトガルエガス・モニスロボトミー手術を確立したことで1949年の生理学・医学賞を受賞しているが、ロボトミーは効果が限定的であるにもかかわらず副作用や事故が多く、またその後向精神薬が発達したこともあり、現在では臨床で使われることはない。モニス自身も実験的な手術を行っただけで、臨床に導入してはいなかった。

文学賞は、過去には歴史書や哲学書の著者にも贈られたことがあったが、1953年にイギリス首相のウィンストン・チャーチルが自著『第二次世界大戦回顧録』を理由に文学賞を受賞したことで選考対象の定義をめぐる論争が起こった。結局これ以降、2016年にアメリカのシンガーソングライター・ミュージシャンのボブ・ディランが受賞するまで純文学の著者による受賞が続くことになる。

戦争を起こした当事者が平和賞を受賞したこともある。キャンプ・デービッド合意によりエジプトイスラエルの間に和平をもたらしたことが評価され、1978年の平和賞はエジプトのアンワル・サダト大統領とイスラエル首相のメナヘム・ベギン首相に贈られたが、そもそもその仲介役としてアメリカの重い腰を上げさせるために第四次中東戦争を企画し、イスラエルへの奇襲作戦を主導したのはそのサダト自身だった。結果的にサダトの狙いは的中したが、これは外交手段の一環として引き起こした戦争を恒久的平和にまで持ち込むことに成功した稀な例となった。


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