ノートルダム大聖堂_(パリ)
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実際に、大聖堂内には9000人をも収容でき[9]、トリビューンには1500人もの人々が昇れるようになっている。
象徴的建造物

パリから各地への距離を表すときの起点(道路元標)はノートルダム大聖堂の前が起点(ポワン・ゼロ)となっている。

世界的に著名な歴史的建造物であり、歴史的にも多くの祝賀行事や記念式典などが開かれてきた[10]

1302年4月10日フィリップ4世の招集による第一回全国三部会開催。

1455年11月7日ジャンヌ・ダルク復権裁判開始。

1804年5月28日に帝政を宣言したナポレオン・ボナパルトの戴冠式は1804年12月2日にノートルダム大聖堂で行われた。

2015年11月15日パリ同時多発テロ事件の追悼ミサが開かれ、大聖堂前の広場にも大勢のパリ市民が集まった。

その他

建物の所有権はフランス政府が有すものの、カトリック教会の使用権が認められている[11]
歴史
建設

ノートルダム大聖堂の歴史は、1163年、国王ルイ7世臨席のもと、ローマ教皇アレクサンデル3世が礎石を据えたことに始まる[10]。建築工事の大半は司教モーリス・ド・シュリーとその後継者オドン・ド・シュリーが指揮を執って進められた[10]

1163年?1177年 内陣の建造(1182奉献)

1180年? 身廊(五廊式)の建造

1196年 司教モーリス・ド・シュリー死去、西側の梁間を除き、ほぼ完成

1200年? 後継者ユード・ド・シュリーによる、西正面ファサードの建造

1220年 「王のギャラリー」の層まで

1225年 バラ窓の層まで

1240年 北塔(高さ地上63m)

1250年 南塔、全面完成

12世紀末から13世紀前半にかけてノートルダム寺院は「西洋最大のカトリック教会」とみなされた[10]
修復夜の大聖堂のファサード。上部にユダヤとイスラエルの王28名の彫像が並ぶ。左側から聖母マリア、最後の審判、聖アンナの門となる。

1789年フランス革命以降、自由思想を信奉し宗教を批判する市民により、大聖堂は「理性の神殿」と改められ、オペラ形式の理性の祭典が行われたり、キリスト教会への破壊活動・略奪が繰り返されていた[12]1793年には西正面の3つの扉口および、王のギャラリーにあった彫刻の頭部が地上に落とされた。ノートルダムの歴史を語る装飾が削り取られ、大聖堂は廃墟と化した。

その後、ヴィクトル・ユーゴーの『ノートルダム・ド・パリ』の出版が、国民全体に大聖堂復興運動の意義を訴えることに成功し、1843年、ついに政府が大聖堂の全体的補修を決定した。1844年、ジャン・バティスト・ アントワーヌ・ラシュスとウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクに委任が決まり、1845年に修復が開始された。1857年、共同修復者のラシュスが死去。その後はヴィオレ・ル・デュク単独の作業となった。1864年に修復は完了した。

ヴィオレ・ル・デュクは、1330年のノートルダム大聖堂を想定し、その完全なる復元に努めた。大規模な修復の一つが、大聖堂の交差部にあった尖塔の復元である。この尖塔は落雷でたびたび炎上し、倒壊の危険があるため1792年に一時撤去されたが、ヴィオレ・ル・デュクらが修復に乗り出した。ヴィオレ・ル・デュクによる尖塔の復元案は、全体の高さを以前よりも約10m高く設定し、デザインもより豊かなものとなった。さらに、最も大きな変更として、尖塔基部を囲んで福音史家と十二使徒の彫刻が付加された。ヴィオレ・ル・デュクは聖トマ像のモデルとなり、自らデザインした尖塔を見上げるポーズを取っている。
その後の改修工事2019年4月15日の火災。改修工事用の作業足場も写っている。
着工850周年プロジェクト

ノートルダム大聖堂は2013年に着工850周年を迎え、そのプロジェクトの一環として北塔と南塔の鐘の鋳造やノートルダム大聖堂前の広場の整備、屋内照明の改修などが行われた[10]

鐘の鋳造は大聖堂の18世紀末の鐘を再現するもので、マンシュ県のコルニーユ・アヴァール鋳造所とオランダのロイヤル・アイスバウツ鋳造所で9基の鐘(銅・錫製で重さ6トン)が鋳造された[10]。その費用の200万ユーロは全額寄付金で賄われ、鐘は2013年3月23日に披露された[10]
大規模火災の発生

2019年4月15日の夕方に大規模火災が発生し、屋根の尖塔が崩落した[3][2][13]


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