ノルマントン号事件
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11月16日に在京浜の宣教師90余名は彼の名のもとに日本人犠牲者の遺族に対する義援金を拠出して哀悼の意を表明した[9]。また、彼はその8日後に事件に対する見解を公表するよう求めた福沢諭吉の要請に90余名を代表して『時事新報』紙上で回答を行い、福沢の指摘するイギリス人乗組員の「不思議不徳義」を全面的に肯定した[10]
演劇・歌・出版物
演劇・出版

 事件後、この事件を演劇として興行しようとする者がおり人心の再燃を懸念した政府はこれを中止させた。(言論統制)[1]

 また、事件直後に『英船ノルマントン号沈没事件審判始末』が出版され、翌1887年(明治20年)には『英国汽船諾曼頓号裁判記録』が刊行された[5]
「ノルマントン号沈没の歌」

 事件直後「ノルマントン号沈没の歌」という歌が無名作家により作られ、ひろく国民に流行した。当初は36節の歌詞であったが、事件解決後に補足され59節におよんだ。曲は軍歌「抜刀隊」の旋律が用いられた。

「ノルマントン号沈没の歌」は、岸打つ浪の音高く 夜半の嵐に夢さめて 青海原を眺めつつ わがはらからは何処ぞと呼べど叫べど声はなく 尋ね捜せど影はなし うわさに聞けば過ぐる月 二十五人の兄弟は旅路を急ぐ一筋に 外国船(とつくにぶね)とは知りつつも 航海術に名も高き イギリス船と知るからについうかうかと乗せられて 浪路も遠き遠州の 七十五里も早や過ぎて 今は紀伊なる熊野浦

から始まって[5]、途中に外国船の情けなや 残忍非道の船長は 名さえ卑怯の奴隷鬼は 人の哀れを外に見て己が職務を打忘れ 早や臆病の逃げ支度 その同胞を引きつれて バッテラへと乗り移る影を見送る同胞は 無念の涙やるせなく あふるる涙を押し拭い ヤオレにくき奴隷鬼よいかに人種は違うとも いかに情を知らぬとも この場に望みて我々を すてて逃るは卑怯者

という歌詞をふくむものであった[11][注釈 4]。事件の経過がよくわかるこの歌は、戦後も春日八郎によって歌われている。
水難救済会

1889年(明治22年)、水難救助のボランティア組織大日本帝国水難救済会発足のきっかけとなった[12]
映像化

『秘話ノルマントン号事件 仮面の舞踏』1943年
松竹制作、佐分利信主演[13]

関連図書

『英船「ノルマントン号」沈没乗客ノ件』(『日本外交文書』19)

川合彦允
「ノルマントン号事件」(『日本古書通信』166)

曽我播編『英国汽船諾曼頓号事件裁判録』大津・奎章閣、1887年(明治20年)

脚注[脚注の使い方]
注釈^ うち3人は凍死しており、上陸後に埋葬された。田中(1990)p.444
^ 井上清『条約改正』(1955)では日本人乗客数を23名としている。また、イギリス人船員38名とインド人給仕1名のうち助かったのは、ドレーク、イギリス人水夫25名、給仕のインド人の計27名で、水夫のうち13名は水死したと記している。さらに、沈没したのは10月25日午前1時ごろ、ドレークが串本にこぎつけて救助されたのはその日の朝9時ごろとしている。井上(1955)p.39
^ 「白痴瘋癲(はくちふうてん)」とは馬鹿で気が狂っていること。
^ 歌詞中「奴隷鬼」は船長ドレークの名をもじったものである。家永(1977)p.103

出典^ a b c d e f g 田中(1990)p.444
^ 藤村(1989)p.82
^ a b 酒田(2004)
^ a b 家永(1977)p.102
^ a b c d e 井上(1955)p.39


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