ネパール共産党_(毛沢東主義派中央)
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2008年4月の制憲議会選挙では第一党となるも単独過半数を得られず、8月15日統一共産党マデシ人権フォーラムなどと連立してプラチャンダを首班とする連立内閣を成立させた。2009年5月4日、プラチャンダが首相を辞任し連立内閣が崩壊。

2011年8月28日、統一共産党のジャラ・ナート・カナール首相の辞任にともない、制憲議会が実施した首班指名選挙で、連立内閣時代に財務相をつとめたバーブラーム・バッタライ毛派副書記長が新首相に選ばれた。これにより統一毛沢東主義派は2年ぶりに政権の座に返り咲いた[2]。制憲議会再選挙の準備のため2013年3月14日にバッタライは首相を辞任。

2018年5月、統一共産党と合同してネパール共産党に発展的解消した[3]。しかし2021年3月になって党名の重複を理由に最高裁判所より統合が無効と判断され、統一毛沢東主義派が統一共産党と共に復活することとなった[4]
活動マオイスト支配地域の家族

武装組織「ネパール人民解放軍」(2万人)を擁し、生活基盤、経済基盤整備が遅れていた山間農村部に拠点「人民政府」を構え、政府に対して武装闘争を繰り広げた。外国からの援助は皆無であるとされ、農民の家に党員や兵士を住まわせてもらい、食糧は農民の援助か自給自足が基本である。武器弾薬は主に警察や国軍を襲撃して奪ったものを使用する。資金調達のため銀行を襲うこともあった。人民戦争の時代、本拠は中西部の山中、ラプティ県ロルパ郡に置かれていた。

男尊女卑の強い文化の影響により、男女同権を主張するマオイストには女性党員も多い。こうした女性党員の中から、2008年多くの制憲議会議員が当選している。また、マオイストの理論的指導者がネパール随一の秀才バーブラーム・バッタライであることから、インテリ層からの支持も少なくない。

兵士による道路建設や、共産主義的な学校教育も行っており、農民の評判は良いが、上納金を要求したり、家屋や財産の没収、農民の兵士への徴用なども日常化しており、マオイスト支配地域から政府支配地域へ逃亡する者もいた。また、実効支配地域にFMラジオ局「ラジオ人民共和国ネパール」を設け、党の主張を放送した[5]

一方、農村各地を巡業しながら、演劇によってマオイストの正義と国王の残虐性を宣伝する宣伝工作隊も存在した。あるとき、過去のマオイストの戦いをテーマにしたオペラを上演したところ、見ていたプラチャンダサングラスを何度もはずし、涙をぬぐったという[6]

アメリカ合衆国はマオイストをテロ組織と認定して国王政府を支援したが、ネパール制憲議会選挙で第一党となると対話路線に方針転換し、2012年9月にテロ組織認定を解除した[7]。また、欧州連合(EU)は、この組織が内戦において少年兵を使っているとして非難し、400名もの子供が死亡したと主張した。

傘下に学生組織である全ネパール民族独立学生連合がある。また、青年組織としてネパール共産主義青年連盟(Young Communist League, Nepal YCL)があり、暴力行為等で問題になっている。姉妹政党には、隣国インド武装闘争を続けているインド共産党毛沢東主義派(ナクサライト)があったが、マオイストが議会路線に転換してからは協力関係ではないとされる[8]
歴史
背景

1990年、ネパールでは政党と国民の民主化運動によりビレンドラ国王によって事実上の絶対王政が廃止され、実質的な立憲君主制が採用された(ジャナ・アンドラン)。これにより30年ぶりに複数政党制による議会制民主主義が開始された。しかし、民主政治への急速な転換は課題が多く、政治は混乱を続けた。
成立の経緯プラチャンダ(左)

のちのマオイスト議長、プラチャンダ1989年に武装闘争を目指す地下政党、ネパール共産党マシャル派の総書記に就任。その後、マシャル派は、ネパール共産党第四会議派などと合流し、地下政党・ネパール共産党統一センター派(エカタ・ケンドラ)に合流する。1994年11月、統一センター派はまったく同名の組織2つに分裂する。一つは武装闘争に消極的なニルマル・ラマのグループであり、もう一つは武装闘争に積極的なプラチャンダのグループである。統一センター派は議会活動のための公然組織・統一人民戦線ネパールを持っていた。これも二つに分裂した。バーブラーム・バッタライはプラチャンダ派の公然組織の議長となる。

1995年3月、本格的武装闘争を前に、プラチャンダ派統一センターはネパール共産党毛沢東主義派と改名する。
40ヶ条の要求バーブラーム・バッタライ

1996年2月4日、バッタライは統一人民戦線ネパールを代表してシェール・バハドゥル・デウバ首相に40ヶ条の要求を突きつける。デウバはこれを拒否する。

その主な内容は、

ネパールとインドの不平等条約の撤廃。

ネパール・インドの国境のコントロール(自由に往来できていた)。

新憲法の制定。

国王・王族のすべての特権の廃止。

軍などの文民統制。

ヒンドゥー教国教の廃止。

カースト制に伴う差別の廃止。

などであった。
人民戦争

要求がデウバ政権に拒否されると、2月13日、毛沢東派は武装ゲリラを組織し、ゴルカロルパルクムシンドゥリの4郡で警察などを襲い、「人民戦争」(ネパール内戦)を開始した。これは2006年まで11年間続き、13,000人以上のネパール人が死亡したとされる。1998年5月、警察による大規模な掃討作戦が始まる。

2000年10月初めて郡単位の人民政府がルクム郡で成立。2001年末までに75ある郡のうち24郡で人民政府を樹立した。
第2回党総会

2001年2月インドパンジャーブ州で第2回党総会が開催された。ここで決定されたことは、
人民解放軍の正式結成。

また「プラチャンダの道」(プラチャンダ・パス)と題される、新しい運動方針が採択される。内容的には、「農村から都市部を包囲する」という毛沢東理論だけでは不十分だと考え、従来の人民戦争を継続しつつ、都市における大衆武装蜂起も進め,幅広い勢力による統一戦線の必要を説いた。また、新憲法の制定をめざし、暫定政府の設立を提唱した。

さらに、プラチャンダ総書記は議長に就任することになった。

ギャネンドラ国王の独裁

2001年6月1日、王室で銃乱射事件が発生し、ビレンドラ国王と皇太子を含む王族要人が死亡すると(ネパール王族殺害事件)、国王の弟ギャネンドラが即位する。ギャネンドラ国王は兄の推進した民主化政策を次々に覆し、議会は閉鎖、内閣は国王派の人物で占められ、ビレンドラが容認した報道の自由も反故にされた。バッタライはネパール王族殺害事件はギャネンドラのクーデターであると新聞紙上に発表したため、国家反逆罪に問われた。
王室ネパール軍との戦い


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