ヌーヴェルヴァーグ
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そして1959年1月10日にフランス本国で公開され[4]、商業的にも成功した。

1959年3月11日、シャブロルの『いとこ同志』が公開。同年5月4日、トリュフォーの『大人は判ってくれない』がカンヌ映画祭で上映[5]。同月、『大人は判ってくれない』はカンヌで監督賞国際カトリック映画事務局賞を受賞し、7月には『いとこ同志』がベルリン国際映画祭金熊賞を受賞した。『美しきセルジュ』もこの年にジャン・ヴィゴ賞を受賞し、ヌーヴェルヴァーグの名は一挙に広まった。

同年8月17日から9月19日にかけてジャン=リュック・ゴダールの長編第1作の『勝手にしやがれ』の撮影が行われた[6][7][8][9]。同年秋、パリ近郊の撮影所の作業室で『勝手にしやがれ』の20分あまりのラッシュを見た新外映秦早穂子は感銘を受け、試写(11月)前であったが日本での配給を決定した[10][11]。同じ頃、ルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』の買い付けも行った秦はヌーヴェルヴァーグをこう分析した。「フランスは戦勝国ではあったが、植民地のインドシナを失い、更にアルジェリアを手放す危機に追い込まれていた。人権や宗教の問題、戦争の後遺症を背負って喘いでいた。一見華やかなパリの空気の底に、黒い不安や怒りが渦を巻く。(中略)ヌーベル・バーグとは、若い人全体の行動と思いであり、映画だけの運動にはとどまらなかった。『勝手にしやがれ』の主人公のミシェル・ポワカール、いや演じたベルモンドの存在そのものが、重苦しい社会の空気を横からぶっ飛ばす力を秘めていた」[10]

1960年3月16日、『勝手にしやがれ』が公開[12]。即興演出、同時録音、ロケ中心というヌーヴェルヴァーグの作品・作家に共通した手法が用いられると同時にジャンプカットを大々的に取り入れたこの作品は、その革新性によって激しい毀誉褒貶を受け、そのことがゴダールとヌーヴェルヴァーグの名を一層高らしめることに結びついた。

一方、左岸派の活動は、カイエ派(右岸派)よりも早くにスタートしていた。時期的にはアラン・レネが撮った中短編ドキュメンタリー作品である『ゲルニカ』(1950年)や『夜と霧』(1955年))が最も早く、その後、レネは劇映画『二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)』(1959年)と『去年マリエンバートで』(1961年)を製作した。カイエ派、左岸派を含めた中で最初の長編劇映画はアニェス・ヴァルダの『ラ・ポワント・クールト』(1956年)だった。ジャック・ドゥミは『ローラ』(1960年)を公開した。これらが商業的な成功も収めたことから、1950年代末をヌーヴェルヴァーグの始まりとすることが多い。

また、まだ「ヌーヴェルヴァーグ」という言葉の生まれるずっと前、1951年『カイエ』創刊の年、ロメールがゴダールを主演に『シャルロットと彼女のステーキ』を撮影し、翌年アストリュックが本格的中編作品『恋ざんげ』を撮る。このとき、トリュフォーは兵役によって不在(1950年 - 1953年)であり、『カイエ』創刊にも立ち会っていない。そのトリュフォーが1953年にパリに帰還、『カイエ』に執筆を開始する。トリュフォーは、リヴェットがルーアン時代に撮っていた短編を観て、創作意欲をかき立てられ、リヴェットの撮影監督としてのサポートのもと『ある訪問』を1954年に撮影している。この20分のラッシュを観たアラン・レネが編集をし、7分40秒の短編映画が出来上がった。この年、スイスでゴダールは『コンクリート作業』という短編を撮り、トリュフォーは『勝手にしやがれ』の最初の原案シナリオを書いた。1956年、ロジェ・ヴァディムが妻のブリジット・バルドーを主演に撮ったデビュー作『素直な悪女』は賛否両論を浴びたが、トリュフォーは絶賛する。このアメリカナイズされた新しいフランス映画の興行的成功の延長線上におかれたことで、経済的な意味でヌーヴェルヴァーグの作品群は存在することが可能になった。また、1958年に撮影が始まったリヴェット『パリはわれらのもの』は、トリュフォーのレ・フィルム・デュ・キャロッス社とシャブロルのAJYMフィルム社の合作であり、前述のジャック・ドゥミも出演している。現実のヌーヴェルヴァーグにあっては、カイエ派も左岸派も乖離した存在ではなかった。
終焉と継承

終焉に関しては諸説あり、その始まり以上に論者による見解は一致しない。最も短いものでは、上述した嵐のような動向が一段落した60年代前半とされる。一般的にはトリュフォーやルイ・マルが過激な論陣を張った1968年5月19日のカンヌ映画祭における粉砕事件までを「ヌーヴェルヴァーグの時代」と捉えるのが妥当だと言われている。この時点までは右岸派や左岸派の面々は多かれ少なかれ個人的な繋がりを持ち続け、運動としてのヌーヴェルヴァーグをかろうじて維持されていたが、この出来事をきっかけとしてゴダールとトリュフォーの反目に代表されるように関係が疎遠になり、蜜月関係と共同作業とを一つの特徴とするヌーヴェルヴァーグは終焉を迎えることとなった。

しかし、即興演出、同時録音、ロケ中心を手法的な特徴とし、瑞々しさや生々しさを作品の特色とする「ヌーヴェルヴァーグの精神」はその後も生き続け、ジャン・ユスターシュフィリップ・ガレル、ジャン=クロード・ブリソー、ジャック・ドワイヨンクロード・ミレールらは「カンヌ以降」に登場し評価を得た作家だが、いずれも「遅れてきたヌーヴェルヴァーグ」との評価を得た。


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