ヌルハチ
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引き返す時にオンゴロ城を攻めたが、傷を負いヘトゥアラに戻った。傷が治ると再びオンゴロ城を攻撃して落とした。1585年2月、ジャイフィヤン(????????, jaifiyan, 界凡)城を攻撃してジャイフィヤン、サルフ、ドゥンギャ(棟佳)、バルダ城の連合軍を破り、4月にトモホ、ジャンギャ(???????, janggiya, 張佳)、ジャイフィヤン、サルフ、バルダ城の連合軍を破った。また9月にフネヘ(渾河)部を攻略して急激に勢力を伸ばした。

1586年7月、いよいよニカンワイランの居城を攻めた。ニカンワイランは明軍に逃げ込んだので、ヌルハチは明軍に引き渡しを求めた。明軍はもはやニカンワイランには利用価値がないと判断したため、ヌルハチがニカンワイランを捕らえて斬首する[21]のを黙認した。
女真の統一

李成梁は、明が制御できる程度に大きな勢力を一つ作り、その後ろ盾になることで女真を治めようとした。これに選ばれたのが建州女真の中のヌルハチであった。ヌルハチはその後、1587年にジェチェン(?????, jecen, 哲陳)部、1588年にワンギャ(???????, wanggiya, 完顔)部を支配した。最後に残ったホホリもヌルハチに帰順した。こうしてヌルハチは、万暦17年(1589年)に建州五大部を統一することに成功した。ヌルハチの支配する国は、建州女真の別名でマンジュ・グルン (満洲国) と呼ばれるようになった。李成梁の思惑は上手く行き、ヌルハチは女真の中の大勢力となった。それと同時に李成梁の懐に入る賄賂の量も大幅に増えたが、これに気を良くしたのか、ヌルハチの統御を怠っていた。

女真の大首長となったヌルハチは、明に朝貢して勅書500通を得た。この勅書を活用して馬市や市場を拡大し、富を増やし、他部族の攻略に備えた。建州女真を統一したヌルハチの次の目標は海西女真であった。海西女真も利害の対立から争いは絶えなかった。

1589年、海西女真のフルン四部の一つ、イェへ(????, yehe, 葉赫)部の首長のナリムブルがフルンの盟主となった。ナリムブルは女真を統一しようとしてヌルハチに帰順を求めたが、ヌルハチはこれを無視して対立を深めた[22]

この時期の明は日本の豊臣秀吉による文禄・慶長の役への対応に忙殺されていたこともあり、女真への介入は少なかった。明と日本が戦っている間に女真の争いは頂点に達した。イェヘ部の首長のナリムブルは1593年6月、ハダウラホイファと連合軍を結成してマンジュ (満洲国) を攻めたが、待ち構えていたヌルハチに追撃されて大敗した。

同年9月、再びイェへ部の首長のナリムブルはハダウラホイファ、ジュシェリ(??????, ju?eri, 珠舎里)部、ネイェン(?????, neyen, 納殷)部、シベ(????, sibe, 錫伯)部、グワルチャ(???????, g?walca, 卦爾察)部、ノン・ホルチン部と9部連合軍を結成し、3万の大軍を繰り出し、3方面からヌルハチを攻撃した (→「古勒山の戦」)。9部連合軍がマンジュ (満洲国) の城を攻めている間、スクスフ河 (蘇子河とも) 北岸のグレ (古勒) 山の山影にヌルハチ軍の精鋭を置き、ヌルハチはわずか100騎で奇襲して逃げ、連合軍が後を追うと、待ち伏せていたヌルハチ軍に包囲され大敗した。この戦いで、海西女真と建州女真の勢力が逆転する。これにより、女真の諸部族はヌルハチに従う者が多くなり、明はヌルハチに対し竜虎将軍の官職を授けた。なお、李成梁はこの2年前に汚職を弾劾され、更迭されている。
ハダ・ホイファ攻略

その後、アムール川周辺にあるフルハ部と朝貢関係を結んだヌルハチは、次にハダの攻略にかかる。ハダもまたイェへとマンジュの間で板挟みの状態にあった。1599年5月、イェへ部のナリムブルはハダを攻撃し始めた。ハダ部の首長のメンゲブルは人質と共にヌルハチに援軍の要請を送った。ヌルハチはこれに応じてシュルガチ (???????, ?urgaci)と2000の兵を差し向けるも、急遽自ら兵を率いてハダを攻撃して支配下に置き、メンゲブルを捕虜にした。その後、メンゲブルは妾と通じたという罪で死刑になる。ヌルハチはハダの住民を全てマンジュ国に連れ去り、ここに事実上ハダは滅んだ。

ハダは明の対女真対策の要地であり、これを滅ぼしたヌルハチに対して明は経済制裁をちらつかせるなどの圧力をかけた。そこでヌルハチは、メンゲブルの長男のウルグダイとハダの住民を元の地に帰したが、イェへ部のナリムブルがハダへの侵略を繰り返したために、結局ハダの住民はマンジュ (満洲国) に戻されることになった。ウルグダイはその後ハダの地を踏むことなく、ヌルハチの忠臣となって活躍した。

1607年、ホイファも内乱に乗じてヌルハチに制圧され、滅亡を迎えた[23]。この前年に日本 (豊臣) 軍が撤兵したこともあり、明はようやくヌルハチに危機感を抱き始め、海西女真のイェヘ部の後押しをすることでヌルハチに対抗しようとした。
ウラ攻略

ヌルハチはウラ国主・ブジャンタイに対し、娘を嫁がせるなど懐柔を見せるが、内心は快く思っていなかった。またブジャンタイは裏ではイェへと関係を結んでいた。1607年1月、ウラがワルカ地方のフィオ城を攻めた際、ワルカはヌルハチに助けを求め、ヌルハチはこれに応じ弟のシュルガチを派遣した。1607年3月、ブジャンタイとシュルガチの軍が烏碣岩で衝突した結果、シュルガチが大勝した (→「烏碣岩の戦」)。その後、ブジャンタイは和睦に応じた[24]。ブジャンタイは腹いせに自分の妻でヌルハチの娘のムクシを虐待した。これに激怒したヌルハチは、1613年1月にウラを攻め滅ぼした[25](→「烏拉城の戦」)。こうしてヌルハチはイェへ以外の海西女真族を全て支配下に入れた。
弟のシュルガチとの確執

ウラ攻略で大功を挙げたシュルガチであったが、次第にヌルハチとの仲が悪化した。権力を握ったヌルハチの自分への態度が尊大になることに不満を覚えた。またヌルハチも、自分の言うことを聞かないシュルガチに対して不満を覚えるようになった。ウラ攻略で戦い方が消極的だったと叱責し、ヌルハチはシュルガチの兵権を縮小した。さらに城を建設しようとシュルガチに兵を送るように命令するが、兵を送るどころかシュルガチは自分の城を築いた。1607年1月、シュルガチは3人の息子と密謀し、イェへ、明朝へと近づくことした。これがヌルハチに知られて、シュルガチは財産を没収され、息子のうち2人が殺害された。シュルガチは深く謝り、許しを請うた。ヌルハチは一度は許そうとしたが、恨みごとを言っていると耳にし、幽閉して死に到らしめた[26]
後金の建国、明との戦いヌルハチヌルハチ時代に鋳造された銅銭。無圏点満州文字でabkai fulingga han jiha(天命汗銭)と書かれている。

万暦44年(1616年)、ヌルハチは本拠地ヘトゥアラ(????
???, hetu ala、赫図阿拉)でハン(???, han、汗)の地位に即き、国号を金(後金、aisin)、元号天命(abkai fulingga)とした。前後してエルデニ(中国語版)(??????, erdeni, 額爾徳尼)とガガイ(中国語版)(?????, g'ag'ai, ?蓋)に命じ、モンゴル文字を改良した満州文字(無圏点文字)を定めた。また、八旗という軍事組織を創始した。このことで、満州人が勢力を拡大する基盤が固められた。

天命3年(1618年)、ヌルハチは「七大恨」と呼ばれる檄文を掲げ、明を攻めることを決定した。この文書の中には、明がイェヘに加担して満州を攻撃すること、祖父のギオチャンガと父のタクシが明に誤殺されたことなどが書かれている。同年、ヌルハチは明の庇護を受けていたイェへ周辺の諸城を攻撃し始めた。李永芳が守る撫順城は兵1000人ほどだったが、ヌルハチは女真人を馬市に参加させて李永芳に通知し、隙を狙い撫順城を攻めて李永芳を投降させた。ついでに清河城が陥落した[27]

同日に東州、マゲンダン(magendan、馬根丹)など500箇所を陥落させた。1619年4月29日、明はイェヘ部と朝鮮の兵を配下に47万と総大将に楊鎬を置き、軍を杜松軍3万、馬林軍1万5千、李如柏軍2万5千、劉?軍1万の4つに分けて、4路からヌルハチの居城であるへトゥアラに侵攻させた。北は馬林軍1万5千とイェヘ軍1万、西は杜松、保定総兵王宣2万5千、東は李如柏軍2万5千、南は劉?軍2万8千で攻めた。こうして、撫順近くのサルフ(?????, sarh?, 薩爾滸)において、10万を号する後金軍と激突した (→「サルフの戦い」)。なお、「号して」とした場合、およそ実数は半分といわれる。ともあれ数の上では後金軍の不利であったが、明の将軍が功を焦って突出したため各個撃破できたことと、戦闘中に砂塵が舞い上がり、これに乗じて明へ奇襲をかけることができたことなどが幸いし、後金が大勝した。明に大勝したヌルハチは、サルフの戦いから5カ月で長年の宿敵のイェへを統合し、悲願であった全女真族の統一に成功した[28]
遼東を巡る戦いと晩年

サルフの戦いの後の1619年6月、楊鎬に代わって遼東経略に就いたのは熊廷弼であった。その頃にはサルフでの勝利とイェへの滅亡により、遼東における後金の有利は決定的であり、兵士の士気も低かったため、鉄嶺は既に落ちており、モンゴルもヌルハチを恐れて明に就こうとしなかった[28]。治安も悪く、農民も離村して社会混乱を起こした。そこで熊廷弼はあえて守勢に回り、軍備を整え、軍律を厳守して18万人の兵で守りを固め、朝鮮と連携するなどヌルハチを牽制した[29]。この方針により農民は耕作を再開したが、中央政府の目からは消極策に映り、熊廷弼は更迭された。

この時期はヌルハチの側も、戦後処理での戦功の配分や朝鮮との通商停止、モンゴルの中立化など様々な国内問題を抱えており、1620年まで積極的な戦争を仕掛けられなかった[30]


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