ニルヴァーナ_(アメリカ合衆国のバンド)
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ポストパンク[1]

活動期間1987年 - 1994年
レーベル

ゲフィン・レコード

サブ・ポップ

公式サイトニルヴァーナ公式サイト

旧メンバー

カート・コバーンボーカルギター

クリス・ノヴォセリックベース

デイヴ・グロールドラムス

(途中脱退者は後述を参照)

ニルヴァーナ(: Nirvana)は、アメリカ合衆国出身のロックバンドオルタナティヴ・ロック、またはグランジ先駆者として知られている。

ローリングストーン誌選出「歴史上最も偉大な100組のアーティスト」第30位[5]
概要

1987年ワシントン州アバディーンで、リードシンガー兼ギタリストカート・コバーンベーシストクリス・ノヴォセリックによって結成され、チャド・チャニングなどのドラマーを経て、1990年デイヴ・グロールを加入させた。ニルヴァーナの成功は、オルタナティヴ・ロックを世に広め、ジェネレーションXの代表的なバンドとして言及されることが多かった。また、彼らの音楽は人気を維持し、現代のロック文化に影響を与え続けている。

1980年代後半、ニルヴァーナはシアトルグランジ・シーンの一員としての地位を確立し、1989年に独立系レコードレーベル「サブ・ポップ」からファースト・アルバム『ブリーチ』をリリースした。彼らは、静かな詩と大きくて重いコーラスの間のダイナミックなコントラストに依存したサウンドを開発した。1991年にメジャーレーベルのDGCレコードと契約したニルヴァーナは、画期的なセカンド・アルバム『ネヴァーマインド』(1991年)からのファースト・シングル「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」で、予想外のメインストリームでの成功を収めた。1990年代の文化的現象となった『ネヴァーマインド』は、RIAAからダイアモンドと認定され、ヘアメタル産業ロックによる支配に終止符を打ったとされている。

ニルヴァーナは、そのパンク的な美学を特徴とし、ポップなメロディーとノイズを融合させ、拒絶反応や社会的疎外感をテーマにしたことで、世界的な人気を獲得した。大規模なツアー、1992年のコンピレーション・アルバム『インセスティサイド』とEP『ホルモウニング』を経て、待望のサード・スタジオ・アルバム『イン・ユーテロ』(1993年)をリリースした。このアルバムは、アメリカとイギリスのアルバム・チャートでトップになり、批評家からも高い評価を受けた。

しかし、1994年4月にコバーンが自殺。これによりニルヴァーナは解散した。ノヴォセリック、グロール、そしてコバーンの未亡人コートニー・ラヴが監修したさまざまな遺作が発表されている。遺作となったライブ・アルバム『MTV・アンプラグド・イン・ニューヨーク』(1994年)は、1996年のグラミー賞で最優秀オルタナティブ・ミュージック・パフォーマンス賞を受賞した。

ニルヴァーナは、全世界で7,500万枚以上のレコードを販売した、史上最も売れているバンドのひとつである。メインストリームとして活動した3年間で、ニルヴァーナはアメリカン・ミュージック・アワード、ブリット・アワード、グラミー賞を受賞し、MTVビデオ・ミュージック・アワードを7回、NMEアワードを2回受賞した。ビルボード・オルタナティブ・ソング・チャートでは5つのナンバーワン・ヒット、ビルボード200では4つのナンバーワン・アルバムを達成した。2004年、ローリングストーン誌は、ニルヴァーナを史上最も偉大なアーティスト100に選出した。2014年には、資格取得1年目でロックの殿堂入りを果たした。
来歴バンドのロゴ

ワシントン州アバディーンでリードシンガー/ギターのカート・コバーン、ベースのクリス・ノヴォセリック、そしてドラムのアーロン・バークハートによって1987年にバンドを結成。バンド名は、フィーカル・マター、セルアアウツ、スキッド・ロウ、ペン・キャップ・チュー、テッド・エド・フレッドといった変遷を経て、最終的に「ニルヴァーナ」(=涅槃)に落ち着いた[6]

ドラマーが安定せず数回メンバーチェンジを繰り返し、やがてチャド・チャニングに落ち着く。

1980年後半のグランジシーンにて存在感を増しつつあったニルヴァーナは、1989年に独立レーベルであるサブ・ポップと契約を交わし、彼らの最初のアルバムである『ブリーチ』をリリースした。バンドのメイン作曲者であったカートは、次第に"静かなヴァースと激しいヘビーなコーラスの繰り返し"というダイナミックな対比という手法を確立していく。それからほどなくして、技術的な問題からカートはドラマーのチャド・チャニングを解雇する。その後、オーディションを経てデイヴ・グロールをドラマーに迎え、よく知られたメンバーが顔をそろえることとなる。

1990年に、メジャーレーベルであるゲフィン・レコードと契約。1991年に発表したセカンド・アルバム『ネヴァーマインド』はBillboard 200で1位を記録、MTVではシングル「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」がリピートされるなど、当時のアメリカ音楽界に衝撃を与え、ヘヴィメタルから一夜にしてグランジが新たなトレンドとなった。ニルヴァーナを筆頭に、パール・ジャムアリス・イン・チェインズサウンドガーデンなどのグランジ・バンドが新たな若者達のヒーローとして祭り上げられた。

カートのヘロイン中毒という問題を抱えていたバンドは一時活動麻痺の状態となるが、1992年にコンピレーション・アルバムインセスティサイド』を発表。続く1993年には、ニュー・アルバム『イン・ユーテロ』を発表している。予想された程の売れ行きではなかったが、アメリカとイギリスのチャートのトップにランクインした。

ドラッグにのめり込んでいたカートは、自殺未遂や奇行を繰り返していた。最後の40日間でも、ドラッグの購入、自殺未遂などがあり、ついには1994年4月5日にシアトルの自宅にてショットガンで頭を撃ち、自殺[7]

カートの死後、ライブ盤を含む何枚かのアルバムがリリースされている。2人の残ったメンバーであるグロールとノヴォセリック及び妻のコートニー・ラブは、レア音源やリリースされていない曲の発表に関する問題で激しく議論した[8][9][10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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