ニュー東映
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同作は、東映初のテレビ映画であるとされる[3][5][20]。同年2月6日には、毎日放送テレビで「テレビ映画 日本歴史シリーズ」の放映を開始、第1作目は『源義経』(監督井沢雅彦、主演南郷京之助)であった[21]

しかしながら、その3か月後の同年5月8日には、東映の東京撮影所京都撮影所の生産力を増強し、第二番線として製作・配給するため、同社は第二東映株式会社へとさらなる商号変更を行った[1][3]。いっぽうテレビ映画の製作については、同年11月2日、同社と別に新たに株式会社東映テレビ・プロダクションを設立、現在に至っている[1][3][6]。「東映テレビ・プロダクション」を参照
東映第二番線の誕生

第二東映の発案者は今田智憲[22][23][24][25]大川博東映社長が今田案を採択し[22][25]、導入を決めたもので[22][25]、設立経緯は東映動画と同じだった[26][27]岡田茂は反対したが[28]、1960年(昭和35年)3月[22]、第二東映は発足した[22]

第二東映の社長は、大川博東映社長が務め、本社を東映本社内に置いた[2]。第二東映本社機構のうち、総務部長と経理部長には、東映本社の総務部次長と経理部次長であった土屋唯男と柴田昌久を据え、生産拠点である「東京製作所」、「京都製作所」をそれぞれ東映の東京・京都の撮影所内に置き、それぞれの取締役製作所長として、東映の取締役であり両撮影所長でもある山崎真一郎、坂上休次郎を配置した[2]。東京製作所、京都製作所のそれぞれの製作部長を第二東映の取締役とし、当時東映の東京撮影所製作部長であった高橋昌一、京都撮影所次長兼製作部長であった岡田茂に実権を握らせた[2]

マキノ雅弘の回想によれば、第二東映発足当初、大川博は「1年間に東映が96本、第二東映が48本撮って、年間100億円の収入」を宣言したという[29]。「第二東映」ブランドで最初に劇場で興行が行われた作品は、1960年(昭和35年)3月1日に公開された『次郎長血笑記 秋葉の対決』(監督工藤栄一)、『危うしGメン 暗黒街の野獣』(監督伊賀山正光)であり、その二本立興行である[9][10][29]。前者が第二東映京都製作所、後者が第二東映東京製作所の作品である[9][10]

同年3月の配給開始以降、同年6月までの間、東映テレビ・プロダクション(新社)製作の中篇映画を第二東映が配給している[10]。『まぼろし峠』(監督藤原杉雄、同年3月8日公開)、『まぼろし峠 完結篇』(同、同年同月15日公開)、『風小僧 風雲虹ヶ谷』(監督仲木睦、同年同月22日公開)、『白馬童子 南蛮寺の決斗』(同、同年同月29日公開)、『浪曲国定忠治 赤城の子守唄』(監督冬島泰三、同年4月5日公開)、『白馬童子 南蛮寺の決斗 完結篇』(監督仲木睦、同年同月12日公開)、『浪曲国定忠治 血煙り信州路』(監督冬島泰三、同年同月19日公開)、『青空街道』(監督藤田潤一、同年5月3日公開)、『青空街道 完結篇』(同、同年同月10日公開)、『風小僧 風流河童剣』(監督仲木睦、同年同月17日公開)、『風小僧 流星剣の舞』(同、同年同月24日公開)、『浪曲権三と助十 ゆうれい駕籠』(監督冬島泰三、同年6月7日公開)、『浪曲権三と助十 呪いの置手紙』(同、同年同月14日公開)の13作である[10]。いずれも時代劇であり、まだ東映京都テレビ・プロダクション(1964年 - 1990年)が設立されていない時代であった[6]

当時の東映は西撮影所で「月八本体制」[30]。第二東映を含めると東映は月に一六本の作品を公開した[30]
新東宝との合併破談とニュー東映ニュー東映のトップロゴ(1961年)。同上(カラー版)。

同年後半、新東宝が各社との配給提携を模索したのを受け、新東宝と第二東映の合併計画が浮上している[12][31][32][33][34]。正確には、新東宝を現代劇専門の製作会社に位置づけて「新東映株式会社」と商号変更し、取締役社長に東映の大川博、取締役会長に新東宝の大蔵貢(1899年 - 1978年)が就任、時代劇は第二東映が製作し、配給に関しては新東宝・第二東映それぞれの営業部門を合併して「新東映配給株式会社」を発足させ、社長には東映の常務取締役であり第二東映の取締役であった伊藤義(1903年 - 1980年)が就任する、というプランであった[12][31][32][33][34]。同年10月10日、大川・大蔵会談が行われ、同年11月1日に新体制発足の方向で交渉成立したはずであったが、大蔵が会長に退くことに難色を示し、結論としては破談となった[12][31][32][33][34]。破談の発表は11月2日に東映からの声明によって行われたが、理由には異論があり、『そして誰もいなくなる 新東宝本社11年の軌跡』(1991年)によれば、佐川滉は大蔵が固執したのはポストではなく自分の持株の引き取り価格であり、その点で難航したと証言しており、また同書は当時東映の常務取締役だった伊勢憲三郎(1899年 - c.1970年)の話として、新東宝専務取締役の山梨稔(1905年 - 没年不詳)が自ら社長をやると発言したことで、大川が交渉を白紙に戻したという証言を紹介している[35]。もともとは大蔵が新東宝の経営に積極性を見失ったことに発端があり、同年11月30日、大蔵は新東宝社長を退陣する結果となった[31][33][34]

「新東映」騒動の3か月後、1961年(昭和36年)2月8日に公開された第二東映京都製作所作品『忍術大阪城』(監督小野登)を最後に[9][11]、同月3日、同社はニュー東映株式会社と改称、全国5地区に「ニュー東映支社」を新設すると発表した[6][12][13]


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