ニューロ・ダイバーシティ
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ニューロダイバーシティ(英語: Neurodiversity)は、Neuro(神経)とDiversity(多様性)の2つを組み合わせた造語で、「脳や神経、それに由来する個人レベルでの様々な特性の違いを多様性と捉えて相互に尊重し、それらの違いを社会の中で活かしていこう」という考え方[1]。特に、発達障害において生じる現象を、能力の欠如や優劣ではなく「人間のゲノムの自然で正常な変異」として捉えるという概念[1]。「神経多様性」あるいは「脳の多様性」とも呼ばれる。
歴史

Jaarsma and Welin (2011) によると、ニューロダイバーシティ運動は1990年代にインターネット上の自閉者のグループから始まった。そして、現在では、自閉症や神経障害や神経発達障害と診断された人全ての人権を求める闘いとして知られている[2]。ニューロダイバーシティという用語は、前世紀に唱えられた自閉症の「冷たい母親説」からも距離をとっている[3]

ニューロダイバーシティのパラダイムは自閉スペクトラム当事者によって主導されているが、次いで出現したグループでは、自閉スペクトラムではない人々、例えば双極者[4][5]、ADHD者[6]、統合失調症者[7][8][9]、統合失調感情障害者、ソシオパス者[10]、睡眠リズム障害者などによっても唱えられている。

ニューロダイバーシティという用語は、オーストラリアの社会学者であるJudy Singerが造った用語である[2]。そして、出版物に初めて掲載されたのは1998年9月30日で、ジャーナリストのHarvey Blumeがオピニオン雑誌アトランティックに掲載した記事で使われた[11]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}神経多様性は、生物多様性が生物にとって重要であるのと同じように、人類という種にとって重要な概念かもしれない。どんな時にどんな神経配線が一番適しているか、全てお見通しにできる人などいるだろうか? 少なくとも、サイバネティクスやコンピューター文化においては、いくらかは自閉的であるマインドが向いていそうだ。[11]

Blumeは、それ以前にも、1997年6月30日のニューヨーク・タイムズで、ニューロダイバーシティという用語自体は使わなかったものの、「神経学的多元性」というアイデアについて記載していた[12]。定型発達が支配する世界に住んでいると、自閉者は致し方なく彼ら自身の慣習を手放さなくてはならない。でも、一方で、彼らは彼ら同士で新たな社会契約を結んだんだ。その中では、神経多元性を強調している。この契約は自閉者が集うインターネットフォーラムやWebサイトで生まれた。…定型発達こそ多様な神経配線のうちの一つだ。時に数が優勢であるというだけで、必ずしもベストな配線というわけではない[12]

Blumeはまた国際的なニューロダイバーシティ運動を盛り上げていくためにはインターネットが重要な役割を果たすということを予想していた[13]。インターネットでのつながりには政治的な意味合いがある。サイバースペース2000と呼ばれるネット上のプロジェクトでは2000年までにできる限り多くの自閉スペクトラム者を集めることを目指している。…そもそも、インターネットは自閉傾向を持つ人にとって自分自身の生活を向上させるために不可欠なものである。というのも、インターネット上の会話は、彼らがコミュニケーションを効果的に行うことができる唯一の方法であることがしばしばあるからだ。……私たちにとってますます切迫してくる課題は、オンラインやオフラインで、自分自身をこれまでとは違った仕方で見ること、つまり、ニューロダイバーシティを迎え入れることだ」[13][13]

何人かの著作家[14][15]は、最初期の自閉アドボケーターはJim Sinclairであると主張する。Jim Sinclairは国際自閉ネットワークの初代会長である。Sinclairは1993年の声明で「我々を憐れむな」と主張した[16]。自分の子供が自閉症であると診断された親たちは自分の子が自閉症であることを「人生でもっとも傷ついた出来事」だと考えることがある。Sinclairは、自閉的ではない人は自閉症を悲劇であると見なし、親たちは子供と家族のライフサイクル全般にわたって絶望と悲観を味わうものとされている。しかし、この親の悲観は子供の自閉症そのものに由来するわけではない。むしろ、親自身の、普通の子供を持ちたかったという願望や子供は普通の子として生まれるだろうという期待が裏切られたことに由来する。自閉症の底に「普通の子供」が潜んでいるわけではない。自閉症は一つの生き方であり、生き方全体に及んでる。自閉症は全ての経験・感覚・知覚・考え・感情を色付けている。そして、存在のすべての側面に関与する。自閉症だけを当人から引き剥がすことはできない。もしそんなことが出来たのであれば、自閉症を引き剥がされて残った人は元の人ではない。ーー重要なのでもう一度言いますよ。もう一度考えてみてください。自閉症は生き方です。自閉症と人を分けることはできません。[16]

Sinclairは、1990年代初頭に「定型発達」という言葉を造ったことでも知られている。「定型発達」はもともと自閉的ではない脳を持つ人を表す言葉だったが、現在ではより広く、神経学的に典型的な発達をした人やそういった人の周りに築き上げられた文化を指す言葉となった。Sinclairも前述のSingerも、神経学的な差異を持った人に対する新しい見方を創造した。最初は自閉スペクトラムがその対象であったが、結果的に、より広い神経学的差異も対象とするようになった。
用語

2011年の Pier Jaarsma によれば、ニューロダイバーシティは「論争の的となる考え方」であり、それは「非定型神経発達を普通の人間の差異と見做す」というものである[2]

Nick Walker (2012) は、ニューロダイバーシティの概念はどんな神経学的状態にある人々も包含するものであるから、「神経学的に多様な (neurodiverse) 人」などというのはありえないし、全ての人々はニューロ・ダイバースである、と論じた。Walker は代わりにニューロ・マイノリティ(神経学的少数派)という語を「神経学的に定型でない人々を指す、良い、病理化しない言葉」として提案した。彼は異なる神経学的な様態を持つ人々は「支配的な文化から周縁化され、十分に適応できていない」と言う[17]。Walker は包括的な概念としてのニューロダイバーシティと、パラダイムとしてのそれ(ニューロダイバーシティを他の形の多様性と同様の社会的力学の影響を受ける人間の多様性の自然な形として理解すること)とを区別することを提案している[17]。ニューロダイバーシティ・パラダイムは、ニューロ・マイノリティを神経学的に定型な多数派からの逸脱であるという理由で問題ある (problematic) 病的な (pathological) 偏りであると表現する病理学的パラダイムと対照される。
自閉者の権利運動詳細は「自閉者の権利運動」を参照

自閉者の権利運動 (autism rights movement, ARM) はニューロダイバーシティ運動の中における社会運動で、自閉の当事者や支援者、および社会がニューロダイバーシティの視点(自閉を治療されるべき精神障害というよりも機能的な多様性として受け入れる立場)を取り入れることを奨励するものである[14]。自閉者の権利運動は様々な目標を掲げている。たとえば、自閉的なふるまいを受容すること[18]、自閉者に対して定型発達を真似た行動を強制するのではなく、自閉の特性に合わせたコーピングスキルを身につけられるようなセラピー[19]、自閉者が自分らしく交流できるような社会的ネットワークやイベントづくり[20]、また、自閉の人びとを社会的マイノリティとして認識すること[21]などが含まれる。
批判

ニューロダイバシティという概念は論争的である[2]。障害に対する医学モデルを支持する人にとって、「障害・欠陥・機能不全」と結び付けられる心的な違いは、生活の多くの側面でインペアメントを引き起こす内的な違いと同一視されている。医学モデルからすると、ニューロダイバーシティに包含されているような心の状態は、治療することができ・そうすべきである医学的な状態である[22]


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