一方、国勢調査局と疾病予防管理センターのデータを使って、ハーバード大学とカナダのブリティッシュコロンビア大学が調査をしたところ、ニューヨークは全米でもっとも不幸だと感じる都市とする結果となった[22]。
エコノミストの兄弟会社で調査業務を行っているエコノミスト・インテリジェンス・ユニットによれば、2016年9月時点で生活費の世界ランキングで第9位と報じられ、ニューヨークの生活費が世界的に見て高いことが報じられている[23]。さらに、ニューヨークは世界でもっともビリオネア(資産が10億ドル以上)が多い街であり[24]、彼らが行う投資活動が世界経済に絶大な影響力を及ぼしている。
歴史詳細は「ニューヨーク市の歴史」を参照1660年のロウアー・マンハッタン(右が北)。当時、ニュー・アムステルダムの一部であった。
1524年、フランス国王の命を受けたイタリアの探検家ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノがこの地域に到達し、ヌーヴェル・アングレーム(Nouvelle Angouleme)と呼んだ[25]。その当時、ここには約5,000人のレナペ族インディアンが住んでいた[26]。
ヨーロッパ人の入植は、オランダ人が1614年にマンハッタンの南端に毛皮貿易のために建てた植民地が始まりであり、これが後に「ニューアムステルダム」と呼ばれるようになった。オランダ植民地の総裁ピーター・ミヌイットが、1626年、レナペ族(デラウェア族)からマンハッタン島を60ギルダー(2006年現在の換算で1,000ドル程度)分の物品と交換した[27]。現在では否定されているが、マンハッタンの代価は24ドル相当のガラスのビーズであったという伝説もある[28]。インディアンには「土地を売る」という文化がそもそもなかったため、この取引を彼らが理解していたかどうかは疑わしい。以後、ボタンをかけ違えたまま、レナペ族や周辺部族と入植者は何度も領土をめぐって戦いが繰り返されているのである。
1664年、イギリス人が町を征服し、イングランド王ジェームズ2世(ヨーク・アルバニー公)の名を取って「ニューヨーク」と名付けた[29]。第二次英蘭戦争の末、オランダは、北アメリカでイギリスによるニューアムステルダム(ニューヨーク)の支配を認める代わりに、南米のスリナムとインドネシア・バンダ諸島のラン島(当時は香辛料貿易の中心地で、毛皮貿易のニューヨークより価値のある土地であった)の支配を得た。1700年までに、レナペ族の人口は200人まで減少していた[30]。
ニューヨークはイギリス帝国の支配の下で貿易港としての重要性を増していった。1735年にはジョン・ピーター・ゼンガー事件の裁判が行われ、北アメリカにおける報道の自由の確立へとつながっていった。1754年の国王ジョージ2世の勅許によって、ロウアー・マンハッタンに王立大学としてコロンビア大学が設立された[31]。1765年10月には印紙法会議がニューヨークで開かれた。
ニューヨークでは独立戦争の間、大きな戦闘が繰り返し行われた。1776年にアッパー・マンハッタンで行われたワシントン砦の戦いでアメリカ軍が大敗したあと、街はイギリス軍の北アメリカにおける軍事的・政治的拠点となり、戦争が終わる1783年までイギリス軍の占領は続いた。終戦後まもなく連合会議の会期がここで行われ、ニューヨーク市はアメリカ合衆国の首都となった。ここで憲法が批准され、初代大統領ジョージ・ワシントンが1789年に就任式を迎えた。第1回連邦議会の初めての会期が開かれ、権利章典が起草された。