ナ・リーグが12球団に拡張し、東西2地区制となった初年度の1969年には100勝62敗で初の地区優勝。アトランタ・ブレーブスとのチャンピオンシップシリーズを3連勝で勝ち抜いてリーグ優勝、そして不利が予想されたワールドシリーズでも、レギュラーシーズン109勝53敗のボルチモア・オリオールズを4勝1敗で破り、ワールドシリーズ優勝を果たした。このお荷物球団のまさかの快進撃は「ミラクルメッツ(Miracle Mets)」と称された。ワールドシリーズ優勝を受け、優勝パレード当日の天気予報はニューヨークの天気を「晴れ、ところにより紙吹雪」と粋に祝福した。 1972年にホッジスの死後、ヨギ・ベラが監督となって1973年に再び地区優勝・リーグ優勝を成し遂げるが、ワールドシリーズでは当時三連覇を果たしていたオークランド・アスレチックスに敗れた。その後はしばらく低迷するが、1986年には日本の読売ジャイアンツでもプレーしたデーブ・ジョンソンを監督として迎え、2度目のワールドチャンピオンとなった。安定した投手陣、ソツない打線でぶっちぎりの優勝。エースにはドワイト・グッデン(1984年の新人王)、主砲にはダリル・ストロベリー(1983年の新人王)など若い世代の選手達が活躍した年でもあった。ワールドシリーズでは、ボストン・レッドソックスに2勝3敗、敗北まで「あと1球」と追い込まれながらも逆転優勝を掴み、「ミラクルメッツ」または「アメージング・メッツ(Amazing Mets)」と呼ばれた。その後は、1988年に地区優勝を果たしたものの、リーグ優勝決定シリーズで、大方有利の予想ながらドジャースに敗れた。 1991年から6年連続で負け越し、1993年には26年ぶりに負け数が100を上回った。 1996年シーズン途中からボビー・バレンタインが監督に就任。 1997年に7年ぶりに勝ち越し。 1998年前々年に同一リーグでノーヒット・ノーランを達成し日米野球第2戦で同時先発出場したソウルオリンピック野球日本代表野茂・2006 ワールド・ベースボール・クラシック・イタリア代表にもなるマイク・ピアザのドジャース多国籍バッテリーを獲得した。 野茂が退団、吉井が残留した1999年にはシンシナティ・レッズの本拠地リバーフロント・スタジアムでのメジャーリーグベースボールワンゲームプレイオフに5-0で圧勝し、ワイルドカードでポストシーズン進出を果たした。ディビジョンシリーズでアリゾナ・ダイヤモンドバックスを破るが、リーグチャンピオンシップシリーズでアトランタ・ブレーブスに敗退した。 2000年も前年に続きワイルドカードでプレーオフへ進出。順当に勝ち、ワールドシリーズへ進出したが、相手は同じニューヨークの球団ヤンキースだった。インターリーグにおいてメッツ対ヤンキースの対戦カードをサブウェイ・シリーズと呼ぶが、これがワールドシリーズでは初めてのサブウェイ・シリーズ[注 1]となった。メッツは全くヤンキースに歯が立たず、敗退した。なお、このシリーズではメッツの主砲ピアザの折れたバットがヤンキースの主戦投手、ロジャー・クレメンスの近くに飛び、クレメンスが拾ったバットをピアザの方に投げたことで両軍騒然となり、以後もこの両者には遺恨が残った。 2002年に新庄は放出され(新庄はその翌年の2003年に1年のみ復帰)、逆にモー・ボーン、ロベルト・アロマー、ジェロミー・バーニッツ、ロジャー・セデーニョら大物を続々と補強したが、75勝86敗と6年ぶりに負け越した。MLBで2番目の年俸総額が揶揄され「1億2,000万ドルの間違い」と酷評された[2]。 2004年には前年に10代の若さでメジャーデビューしたホセ・レイエスを二塁へコンバートして松井稼頭央を獲得した。松井の退団後はデビッド・ライト、ホセ・レイエスの三遊間コンビが頭角を現していった。 2005年にGMにオマー・ミナヤが、監督にウィリー・ランドルフがそれぞれ就任し、チームは力をつけていった。FAでペドロ・マルティネス、カルロス・ベルトランを大型契約で獲得、83勝79敗と5年ぶりに勝ち越した。オフにフロリダ・マーリンズからカルロス・デルガドとポール・ロデューカを、フィラデルフィア・フィリーズからビリー・ワグナーを獲得。 2006年は18年ぶりの地区優勝を果たしたが、リーグチャンピオンシップシリーズでセントルイス・カージナルスに敗れ、ワールドシリーズ進出はならなかった。 2007年は前年の主力の多くが残留し、モイゼス・アルー、ルイス・カスティーヨが加わり、序盤から好調で2年連続の地区優勝が確実視されたが9月の終盤戦で失速、シェイ・スタジアムで行われたレギュラーシーズン最終戦でマーリンズに敗れ、1ゲーム差でフィリーズに地区優勝を奪われた。残り17試合で7ゲーム差を付けながら逆転で優勝を逃したのはMLB史上初の出来事だった。 2008年2月にヨハン・サンタナを6年総額1億3750万ドルと球団史上最高金額で獲得し、巻き返しが期待されたが序盤は低迷、6月17日に監督のランドルフが解任され、ジェリー・マニエル
2度目のワールドシリーズ優勝
1990年代
2000年代