州都はサンタフェ、州内最多の人口を抱える都市はアルバカーキである。
家庭で話される言語(ニューメキシコ州) 2010
英語 63.96%
スペイン語 28.45%
ナバホ語 3.50%
人種構成(ニューメキシコ州) 2010
ヒスパニック 46.3%
白人 40.5%
インディアン 9.4%
黒人 2.1%
アジア系 1.4%
混血 3.7%
歴史ロスアラモス国立研究所と ロスアラモスの町詳細は「ニューメキシコ州の歴史」を参照
ニューメキシコ州となった地域に住んだことが分かっている最初の住人はパレオ・インディアンのクローヴィス文化の人々だった[2]:19。
その後、マギョウン文化やアナサジ文化のインディアンが住んだ[3]:52。16世紀にヨーロッパ人と接触する時までにプエブロ人とナバホ族、アパッチ族、ユト族の集団の集落が造られた[2]:6,48。
フランシスコ・バスケス・デ・コロナドが1540年から1542年にメキシコのコンポステラで巨大な遠征隊を作り上げ、マルコス・デ・ニサが物語った伝説のシボラの黄金七都市を探し、見つけようとした[3]:19?24。ヌエボ・メヒコという名前は、1563年にメキシコのはるか北まで探検したフランシスコ・デ・イベラという金鉱の探求者が最初に使い、その発見してきた所が「ニューメキシコ」であるとして報告した[4]。フアン・デ・オニャーテが1588年に新しいニューメキシコ植民地の初代知事に指名されたときに、公式にその名前を採用した[3]:36?37。1598年、オニャーテはリオ・グランデ川沿いのオケイ・オウィンゲ・プエブロ近くに[3]:37、この領域では初の恒久的ヨーロッパ人開拓地となるサンフアン・デ・ロス・カバレロス植民地を設立した[5]。オニャーテはチワワのサンタバーバラから自分の植民地まで700マイル (1,120 km) も、カミノ・レアル・デ・ティエラ・アデントロ(内陸の王道)を延伸させた[6]:49。
1608年ごろ、ロッキー山脈の南端にある支脈サングレ・デ・クリスト山脈の麓にサンタフェの町が設立された[6]:182。この町は地域内の開拓地の大半とともに、プエブロの反乱の結果として、12年間スペインから見放された[7]。プエブロの指導者ポペの死後、ディエゴ・デ・バルガスがこの地域をスペインの支配下に戻した[3]:68?75。サンタフェが交易の中心として発展する一方で、戻ってきた開拓者が1706年に既にあった周辺集落からアルバカーキの町を設立した[3]:84。アルバカーキという名前はヌエバ・エスパーニャの副王第10代アルバカーキ公爵フランシスコ・フェルナンデス・デ・ラ・クエバにちなんで名付けられた[8]。
ヌエバ・エスパーニャの一部だったので、メキシコ独立戦争の後の1821年にメキシコが独立すると、ニューメキシコもその一部として継承された[3]:109。テキサス共和国が1836年にメキシコから分離したときに、リオ・グランデ川東岸の部分の領有を主張した[9]。テキサスはコマンチェリアによってニューメキシコと分離されており、その主張する領土を支配しようとした唯一の試みはテキサス・サンタフェ遠征だったが失敗した。ニューメキシコの最北端は当初フランスが支配していたが、1803年にルイジアナ買収の一部としてアメリカ合衆国に売却されていた[10]。1800年までにスペイン人の人口は25,000人に達していたが、アパッチ族とコマンチェ族がヒスパニック系開拓者を襲い続け、アメリカ合衆国によって支配される時代まで続いた[11]。
1846年から1848年の米墨戦争と1848年のグアダルーペ・イダルゴ条約の結果、メキシコがまだ入植をほとんど進めていなかった北部地域、今日アメリカ合衆国南西部と呼ばれる地域とカリフォルニアをアメリカ合衆国に割譲した[3]:132。1850年妥協によって、テキサスが1,000万ドルと引き替えに、リオ・グランデ川東岸にある地域の領有権主張を取り下げた[3]:135。アメリカ合衆国は1853年のガズデン購入によって、ほとんどが砂漠であるニューメキシコ南西部のブーツのかかと部分とアリゾナのヒラ川南部を獲得した。これはアメリカにとっては大陸横断鉄道の建設に関わる所だった[3]:136。
アメリカ合衆国議会は1912年1月6日にニューメキシコを47番目の州として昇格させた[3]:166。
第二次世界大戦の間、ロスアラモスで最初の原子爆弾が設計・製造され、ソコロとアラモゴードの間にあるホワイトサンズ実験場の砂漠で最初の核実験が行われた[3]:179?180。
ニューメキシコ州は連邦政府の予算から恩恵を受けている。3つのアメリカ空軍基地、ホワイトサンズ・ミサイル実験場およびロスアラモスとサンディアにある国立研究所が州内にある。