ニューミュージック
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1980年版では同じ野口久光の執筆で「古くから『新しい音楽』という意味で使われている言葉で、ロックを中心に扱っている雑誌ミュージック・マガジン』の場合には、新しい傾向、進歩的な音楽という意味がこめられているようだが、それとは別に日本のロック系、フォーク系のミュージシャンが志向する新しいポピュラーなスタイルの音楽、そのジャンルを指す用語として使われている。その意味のニュー・ミュージックのアーティストとして矢沢永吉ゴダイゴアリス松山千春さだまさしなどがいる(原文ママ)」と解説している[9]。1982年版は同じ野口の執筆で説明は同じで、アーティスト名が矢沢永吉、ゴダイゴ、松山千春、さだまさしに、何故かアリスが消されて、海援隊矢野顕子が加えられている[10]。1976年頃は「フォーク系のシンガー・ソング・ライターのもの」、つまりフォークギターを弾きながら歌うアーティストがニュー・ミュージックの主流だったものが、年を追うごとにロックシンガーやロックバンド鍵盤楽器を使って歌うアーティストなど、広い範囲を「ニュー・ミュージック」と呼ぶようになったことが分かる。1984年版からは執筆が中村とうように代わり、「ニュー・ミュージック」が外された。以降は記載がない。興味深いのはこの1984年版に初めて「シティ・ポップス」が掲載されたことである。「シティ・ポップ」ではなく「シティ・ポップス」である[11](後述)。

マイペディア』(平凡社)の1994年版には「1970年代にあらわれた日本の流行歌の新しいジャンル。1960年代のフォークとロックから発展し、従来の演歌調の歌謡曲にあきたりない若者層の圧倒的な支持を集めた。吉田拓郎井上陽水中島みゆき、松山千春、荒井(松任谷)由実らが輩出」と書かれている[12]
音楽ジャーナリズムなど

(時系列順)
「ニューミュージック」を論じた初期の文献に
伊藤強の1976年『科学と思想』での評論があり[13]、伊藤は「いまの若者をとらえて離さないのは、いわゆるニュー・ミュージックと呼ばれるたぐいの音楽である。このニュー・ミュージックなる言葉はまことにあいまいであり、どの音楽タイプの音楽がそうで、どれがそうでないと区別がつきにくい。大まかに言うならフォークソングと呼ばれるもの(これにしても概念規定がきちんとしているわけではないが)と、ロック音楽を含めての総称ということになろうか。型式的にはそのようなタイプであり、歌のなり立ちという点で考えるなら、いわゆる既成の作詞、作曲家でない人間が作品を作り、それを自らうたうか、仲間にうたわせるかのどちらかのやり方で出来上がるものがいわゆるニュー・ミュージックには多いといういい方も出来る。このニュー・ミュージックなるもの、源流はやはりフォークである。高石友也岡林信康らが作り、うたった『受験生ブルース』や『山谷ブルース』などが最初の作品であり、これらはそれまでの流行歌にない、ある種の新鮮さを持っていた。これらの歌は作った人たちの生活実態に根ざしており、それだけの説得力も持っていたわけである。これらの歌は多くのタイプの歌の中で、まだほんの一部の人たちに支持されるにとどまっていた。こうしたフォークはアメリカ反戦歌や、少しイデオロギーの薄いキングストン・トリオやPPMといったグループのコピーをすることによって成立したといっていい。いわゆる演歌は別にして、あらゆる分野の音楽が、外国の音楽のコピーから始まったのと同じように、フォークもまた例外ではなかった。こうしていくうちに、エレキ・ギターのブームが到来する。音楽好きの若者はたちまちそれに飛びついた。ギターを弾くということでは、フォーク志向の中で訓練済みであったし、自分たちで歌を作るというムーブメントは、第一期のフォーク・ブームのときに少しはあったし、第一、エレキ・ギターのブームはつまるところ楽器のブームであり、サウンドのブームだったから、コピーすべき"うた"が少ない。なにせ日本にそのブームをもたらしたのはベンチャーズであり、彼らは楽器演奏のグループだったのである。グループ・サウンズ(GS)というものがこうして発生する。このGSのブームは比較的短期間に終わる。それは、彼らの作り出した歌がその発想の貧しさから、いわば全く個人的な日記に似たものになってしまい、従って多数の人たちの共鳴を得られるものにならなかったためである。生活感のない歌は、結局のところ誰をも感動させ得ないし、共鳴させることも出来ないものなのである。こういった音量で勝負するようなGSブームをよそに、いわゆるフォークが根強く若者たちをとらえていた。GSブームがスターとファンという図式で広まり、ついに最後までそのパターンを抜けきれなかったのに比べ、京都、あるいは広島あたりのフォークは、作品を作り、うたう人間と、それを聞く人間との間に、ある種の同志的連帯感が存在していた。音楽的にも、エレキ・ギターのように、電気的に増幅された音ではなく、アコースティック・サウンドで、いわばマン・ツー・マンの語りかけというパターンをとった。歌を聞く方は、そのような一対一(に似ている)の関係の中で、当然のことながら参加の意識を持つ。これらの歌は自分のものだという確信を持つ。言ってみれば組織や電気的な媒体を通して、大量に伝達されていく音楽へのアンチテーゼとして、これらの音楽は生まれ、若者の間に定着していったのである」などと論じ、レコード会社の製作外から生まれた『帰って来たヨッパライ』の大ヒットを見た各レコード会社はこれを見逃さず、吉田拓郎など売れそうなフォークを取り込んで売り出し、シェアを拡大させた、これがニュー・ミュージックと説明している[13]

The Music』1976年12月号に「フォークといえばヤボッたくロックと聞くとバタ臭い。ニュー・ミュージックとは実にうまいことをいうもので、いかにもしゃれていてカッコいい表現だ。確かに最近のニュー・ミュージック・シンガーのたちの進出ぶりは目ざましく、内容は充実し、個性豊かな実力派はメジロ押し…」などと書かれている[14]


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