ニュータイプ
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一方、ニュータイプの概念を現実の比喩として受け取った人々の間では、「アニメなどの若者文化に熱狂し新しい価値観の理解者となった我ら若い世代こそがニュータイプであり、そのような新しい価値観を理解できない大人たちこそがオールドタイプである」などといった解釈もなされ[13]、ニュータイプの概念は世代間の断絶を象徴する比喩としても受け取られていく[13]。1985年の『機動戦士Ζガンダム』では、ニュータイプ同士の戦いが念動力や霊能力を駆使する古典的なサイキッカー同士の超能力戦のように描かれるようになるが[14][15][9]、同時に劇中におけるニュータイプの扱いもネガティブなものとなっていき[16][17]、同作から1986年の『機動戦士ガンダムΖΖ』、1988年の『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』にかけては、ニュータイプの概念に翻弄された人々が次々と命を落としてゆく悲劇的な物語が描かれる[13]。1991年の『機動戦士ガンダムF91』以降の作品では積極的に描かれることが少なくなっていき[18]、テーマ的な行き詰まりをみせていくが[19]、これを1995年に地下鉄サリン事件を起こした宗教団体オウム真理教が、自らの教義を説明する際に「ニュータイプ」の概念を引き合いを出したことなど[20]、当時の世相やカルト宗教との親和性と関連づける意見もある[20][7]

一方、宇宙世紀シリーズ以外の作品を含む富野が手掛けなかったガンダムシリーズの作品でも、ニュータイプの概念はオマージュされて導入されており[21][9]、ニュータイプの能力が発現する際の「額に稲妻のようなエフェクトが走る」といった演出は、「お約束」として一般にも広く知られるようになった[11]
原作者らのニュータイプ概念の変遷と意図
富野由悠季の考え

テレビアニメ版『機動戦士ガンダム』では終盤の第38話で唐突に登場する「ニュータイプ」という単語だが[3]、富野は『機動戦士ガンダム』企画書の段階で既に作中での「エスパー」(ニュータイプ)の登場を想定し[22][3][23]、「人類の革新」を作品のテーマとすることを構想していた[22]。一方でエスパー(超能力者)という概念は『機動戦士ガンダム』企画当時には既に、使い古され手垢にまみれた表現であった[24]。富野はその概念を「エスパーという特異なもの」にすることを避けつつも、定義を曖昧にしたまま「人類の革新」という大義を想起させるような「ニュータイプ」という単語を当てはめることにした[25]。富野が語るところによれば、終盤までその単語が登場しなかったのは、「ニュータイプ」という単語を思いつくまでに時間がかかったためであるとされる[26][3]

富野自身はニュータイプを「エスパー、超能力者と同じ程度の扱いか、それよりやや高い扱い」と意味づけていた[27]。放送直後の当時の富野が語ったところによれば、その概念は「人間同士の思惟が直結することによりコミュニケーション(意思伝達)に誤解が生じなくなり、誤解なく通じ合った意思や考え方が重なり合うことにより相乗効果の増幅が得られる」というものであったとされる[28]。しかし富野が製作段階で各脚本家にニュータイプの設定について意図的に説明しなかったため、スタッフ間でニュータイプの概念について統一した理解が構築されることはなく[22][29]、安彦良和(後述)や星山博之といった主要なスタッフは富野が提示するニュータイプの概念に対して口々に違和感を表明している[29]


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