ニューカレドニア
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フランス語ではヌーヴェルカレドニー(Nouvelle-Caledonie)と呼び、ニューカレドニアは英語読み(英語: New Caledonia)から来ている(Caledoniaはスコットランドラテン語名であり、新しいスコットランドの意。同義のノヴァ・スコシアとは無関係)。先住民カナックの言葉ではカナキー(Kanaky)とも呼ばれる。

人口は、2016年の調査では27万5355人。政庁所在地で人口最大の都市はヌーメア2014年の人口は9万9926人[2])。インターネット国別コードトップレベルドメインは「.nc」。通貨ウォリス・フツナフランス領ポリネシアと共にCFPフランを使用している。主都ヌーメアは、太平洋地域の地域協力機構、太平洋共同体の本部所在地である。

1985年以降、カナックによる激しい独立運動が行われ、一時は暴動内戦に近い状態を呈していた。1986年、国連非植民地化委員会(United Nations Committee on Decolonization)は、ニューカレドニアを国連非自治[3]地域リストに掲載した。

1998年、フランス政府と独立派組織のFLNKS、カレドニア共和国運動(英語版)と締結されたヌーメア協定(英語版)に基づき、2018年11月4日2020年10月4日、そして2021年12月12日に独立を問う住民投票が実施されたが、いずれも独立反対が過半数を占め、独立は否決された(詳細は後述[4][5][6]
地名

カレドニア」とは、今日のスコットランドにあたる地域を指すラテン語名である。一方、カナキー (Kanaky) という名もフランス語英語、現地の先住民であるカナックの言葉では一般的に使われており、メラネシア民族主義者の間では「ヌーヴェルカレドニー」より「カナキー」のほうが好まれる。

カナキーという名は、ポリネシア語で「人間」を意味し、ポリネシア人の自称として使われる「カナカ (kanaka)」から来ている。カナカという語は後に、フランス人がポリネシア・メラネシアを含めた全ての太平洋先住民を指して使う言葉になった。一方、フランス語化したカナク (Canaque) は侮蔑語として使われていた[注釈 1]

1960年代から1970年代にかけ、ニューカレドニアのメラネシア系先住民が政党を結成し独立への訴えを開始したとき、侮蔑語だったカナクはメラネシア人の政治的解放と民族の誇りのシンボル的な言葉となった。1983年、政治的混乱がニューカレドニアを襲った時期、カナク (KANAK) とカナキーは政治的な標語となり、カナクという語が政治的主張の強い言葉へと変わったことが広く認識されるようになった。
歴史

1774年ジェームズ・クックによって「発見」され、1853年フランス領となっている。当初は流刑植民地だったが、19世紀後半のニッケル発見後は鉱業の島となった。20世紀後半には独立闘争で島が揺れ、1998年のヌーメア協定(英語版)で将来に関する合意がなされた。
先住民族

西太平洋に人が住み始めたのは5万年前であった。その後パプア諸語の民族がメラネシアに拡散した。他にも、ラピタ人 (Lapita) がメラネシアの島々に移り住んでいる。紀元前1500年、ラピタ人たちは現在のニューカレドニアおよびロイヤルティ諸島に到達し、高度な航海術農業土器作りは太平洋の広い範囲に影響を及ぼした。その土器などの痕跡は今もニューカレドニアに残るほか、彼らの前に住んでいた民族による1万年前のペトログリフ(岩刻)も残っている。

その後、オーストロネシア語族が台湾などを起点にオセアニアに進出している。11世紀ごろ、オーストロネシア語族のポリネシア人がニューカレドニアに到達し、パプア系などの先住民族と混血した。

ニューカレドニアのメラネシア人は、27のメラネシア系言語とウォリス・フツナ人よりもたらされたポリネシア系言語、合わせて28の言語を有している。その共同体社会は、クラン(clan、氏族)を基本単位にして細分化している。実際の居住は、いくつかのクランが集まり集団 (tribu) を構成している。これらの集団において首長権限に違いが出ている。たとえば首島のグランド・テール (Grande Terre) では首長権限は緩やかだが、ウベアリフー、マレなどのロイヤルティ諸島では、首長支配が強い[7]
ヨーロッパ人到達

ヨーロッパ人のニューカレドニアおよびロイヤルティ諸島到達は18世紀後半のことだった。イギリスの探検家ジェームズ・クック(キャプテン・クック)が1774年、海上からニューカレドニア本島(グランドテール島)を「発見」し、山の多いスコットランドカレドニア)を思わせる眺めからニューカレドニアと名づけた。同じ航海で、彼はニューカレドニア北方の島にニューヘブリデス諸島(現在のバヌアツ)と名づけている。ニューカレドニアの地図、1888年

イギリスとアメリカ合衆国捕鯨業者および白檀(サンダルウッド)貿易商がニューカレドニアに関心を示すようになり、ヨーロッパ人と先住民との間に緊張が高まった。ヨーロッパ人の先住民への接触も次第に無知に付け込んだ不正直なものとなり、高慢な態度と詐欺が横行するようになった。英米人はアルコール煙草など依存症の高い物品を物々交換の品物に混ぜ、先住民を中毒にした。またヨーロッパ人との接触で天然痘インフルエンザなどさまざまな疫病が先住民の間に蔓延したことにより多くの人々が亡くなった。そして緊張は敵意に変わり、1849年にはカッター号の船員がポウマ族 (Pouma) に殺され、食べられる事件が起きた。

白檀貿易が衰退すると、新たな商売が誕生した。ニューカレドニア、ロイヤルティ諸島、バヌアツパプアニューギニアソロモン諸島などで先住民を捕らえ、フィジークイーンズランドサトウキビプランテーション奴隷労働をさせる「ブラックバーディング」である。こうした奴隷貿易で島々の社会や文化は荒廃したが、20世紀初頭まで終わることはなかった。

カトリックプロテスタント宣教師がやってきたのは19世紀である。彼らが先住民の文化に与えた効果は重大なものがあった。宣教師は人々に服を着て肌を隠すように言い張り、多くの風習や伝統を根絶やしにしてしまった。
フランス領有

ニューカレドニアは1853年9月24日、イギリスのオーストラリア・ニュージーランド領有に対抗しようとしたナポレオン3世の派遣した提督オーギュスト・フェヴリエ=デポワント (Auguste Febvrier-Despointes) によってフランス領と宣言された。同年9月29日、パン島も領有宣言した。1864年には、ロイヤルティ諸島もフランス植民地として組み込んだ。イギリスのオーストラリア植民の例に倣い、1854年から1922年までの間、有罪を宣告された重罪犯およそ2万2000人が、流刑地とされたニューカレドニア島南西岸地域に送り込まれた。この中には通常の凶悪犯もいれば、パリ・コミューン共産主義者、アルジェリア北部のカビリアで逮捕されたカビル人民族主義者ら政治犯も数多くいた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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