被告となったのは24名の「主要戦犯」(英語: Major War Criminal)であり、うち2名が審理中に死亡、もしくは除外された[28]。高齢を理由に免訴されたグスタフ・クルップに代わって息子のアルフリート・クルップを被告に加える動きがあり、米仏ソ三国は賛成したが、イギリスは反対し、裁判所も被告と認定しなかった[29]。
ドイツの最高指導者だった総統アドルフ・ヒトラー、最高幹部の宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスや親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーらは終戦時に自殺しており、起訴することが不可能であった。また、ナチ党最大の実力者であった党官房長マルティン・ボルマンも行方不明のまま(後年になってベルリン陥落時に自殺していたことが判明)であり、起訴はしたものの欠席裁判で死刑判決を言い渡された。
検察側が被告に対して、暴行や違法な取り調べを行ったり、弁護団に妨害行為を行った為(#被告に対する暴行や弁護団への不法行為)、戦争の全容解明が困難になった。また、国民啓蒙・宣伝省の幹部だったハンス・フリッチェの起訴は自殺したゲッベルスの「身代わり」としての意味合いが強く、フリッチェは結局、この裁判では無罪判決を受けている。
氏名共同謀議への参加平和に対する罪通例の戦争犯罪人道に対する罪量刑地位付記
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マルティン・ボルマン起訴不起訴有罪有罪死刑ナチ党官房長。01/ナチ党における事実上最大の実力者。裁判当時は行方不明のため、欠席裁判が行われた(ベルリンの戦いの中で自殺したことが1972年に確認された)。
カール・デーニッツ起訴有罪有罪不起訴禁固10年1943年から海軍総司令官、海軍元帥。アドルフ・ヒトラーの後継大統領。02/Uボートによる通商破壊戦の企画実行者。
ハンス・フランク起訴不起訴有罪有罪死刑ドイツ法律アカデミー総裁、無任所相、ポーランド総督。03/
ヴィルヘルム・フリック起訴有罪有罪有罪死刑内務大臣→ベーメン・メーレン総督。04/
ハンス・フリッチェ起訴起訴起訴不起訴無罪宣伝省幹部(新聞局長→ラジオ放送局長)05/人気のあったラジオニュースキャスター。
ヴァルター・フンク起訴有罪有罪有罪終身刑経済大臣・ライヒスバンク総裁06/1957年5月16日に病気により釈放。
ヘルマン・ゲーリング有罪有罪有罪有罪死刑空軍総司令官、国家元帥、航空大臣、四カ年計画責任者07/ナチ党のNo2、ヒトラーの自殺直前まで後継指名者。死刑執行前日に服毒自殺。
ルドルフ・ヘス有罪有罪起訴起訴終身刑ナチ党総統代理、無任所大臣08/1941年、イギリスへ和平交渉のために単独飛行し、イギリスで捕虜になっていた。
アルフレート・ヨードル有罪有罪有罪有罪死刑国防軍最高司令部作戦部長、上級大将09/1953年、夫人の控訴に応じた西ドイツの裁判所はヨードルの無罪を宣告したが、アメリカはこの判決の受け入れを拒否した。
エルンスト・カルテンブルンナー起訴不起訴有罪有罪死刑国家保安本部長官10/秘密警察の最高責任者。ハインリヒ・ヒムラーに次ぐ親衛隊の最高幹部。
ヴィルヘルム・カイテル有罪有罪有罪有罪死刑国防軍最高司令部総長、陸軍元帥11/
グスタフ・クルップ起訴起訴起訴起訴重工業企業家クルップ家の当主12/体力的に裁判に耐えられず訴追されなかった。
ロベルト・ライ起訴起訴起訴起訴ドイツ労働戦線指導者、無任所大臣13/1945年10月25日、公判前に自殺。
コンスタンティン・フォン・ノイラート有罪有罪有罪有罪禁固15年第二次世界大戦開戦前の1938年までの外務大臣→ベーメン・メーレン総督14/1954年11月6日に病気により釈放。
フランツ・フォン・パーペン起訴起訴不起訴不起訴無罪ヴァイマル共和国時代末期のドイツ首相→ヒトラー内閣の副首相→駐オーストリア大使→駐トルコ大使15/
エーリヒ・レーダー起訴有罪起訴不起訴終身刑1943年まで海軍総司令官。海軍元帥16/ヒトラー政権に海軍として協力。1955年9月26日に病気により釈放。
ヨアヒム・フォン・リッベントロップ有罪有罪有罪有罪死刑1938年から外務大臣17/日独防共協定並びに日独伊三国同盟、独ソ不可侵条約の立役者。
アルフレート・ローゼンベルク有罪有罪有罪有罪死刑ナチ党外交政策全国指導者。東部占領地域大臣18/支配人種