ニホンザル
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絶滅のおそれのある地域個体群(環境省レッドリスト[25]
金華山のホンドザル
ニホンジカによる植生の改変による影響が懸念されている[25]。生息地は三陸復興国立公園に指定されている。1967年における生息数は群れ1つで約70頭、1983年における生息数は群れ5つで270頭(1983 - 1984年の冬季に約180頭まで減少)、1994年における生息数は群れ6つで約300匹、2003 - 2005年における生息数は156頭、2007年における生息数は群れにいない個体も含めて259頭と推定されている[25]。絶滅のおそれのある地域個体群(環境省レッドリスト[25]
M. f. yakui ヤクシマザル
LEAST CONCERN (IUCN Red List Ver. 3.1 (2001))[3]

日本ではマカカ属(マカク属)単位で、特定動物に指定されている(特定外来生物に指定されているアカゲザル・カニクイザル・タイワンザルを除く)[26]


日本のサル学の発祥の地は「高崎山自然動物園」のある高崎山(大分県大分市)ともいわれる[27][注 1]
文化の中のニホンザル明治時代に描かれた錦絵風の『桃太郎』のイラスト。1886年。

この節の加筆が望まれています。

2015年(平成27年)2月2日発行の5円普通切手の絵柄として採用された[28]
呼び名

日本語「猿(さる)」は、元来ニホンザルを指して使われた呼び名であった。異称は「ましら」で、和歌などでは盛んに使われる。南方熊楠によればこれは梵語に由来するものかという[29]。わびしらに ましらな鳴きそ あしびきの 山のかひある 今日にやはあらぬ (凡河内躬恒古今和歌集 R雑体 #1067)

また俗に「エテ公」などとも言うが、これは一種の忌み言葉で、猿が「去る」に通じるのを避けて「得手」と呼んだことが起源とされる[30]。南方がかつて熊野川を船で下ったとき、船頭は猿を「野猿(やえん)」「エテ吉」と呼び、決して「猿」の名を口にはしなかったという[29]。上記のように「猿が去るに通じる」のを避けるため「エテ」などの別名で呼んだとされるが、「猿」を忌み言葉とする文化は日本以外のアジア圏でも確認できるため、本来はそこに別の意味があったのではないかと考えられる。

いっぽうで、続日本紀に見える柿本朝臣佐留、歌人の猿丸大夫上杉謙信の幼名「猿松」、前田利常の幼名「お猿」など、日本人の名には「猿」を戴くものもあるのだが、南方によればこれは、古く猿をトーテムとする家族が多かった名残であろうという[29]。歌人や演者には「猿」を名前に入れる人が多く、古く日本全体で必ずしもすべての人が「猿」を忌み言葉にしていたのではないことがうかがえる。
山神としてのニホンザル「猿神」も参照

猿は古来“山神”とされた[注 2][32]。猿は他の獣とは違って人の異形にして縮小態であり、それゆえに、山神の使者、あるいは神そのものとされたのも自然な成り行きであった[32]

南方によれば、田畑を荒らされるのを防ぐために猿に餌をやったことが、かえって猿は田畑の守り神であると認知させることになったのだという[32]。また日吉信仰はおそらくその字のとおり太陽崇拝に関係しており、日の出とともに騒ぎ出す猿は日神の使者と考えられたのではないかという[29][32]中村禎里によれば、猿神が日本土着の起源をもつことは、これが日吉系の各社にかぎらず浅間など各地で山神信仰と結びついていることからも明らか[32]だが、そうした山神としての猿信仰が、仏教とともに流入したインドの土俗神とおそらく習合し、さらに「日吉」「庚申様」「馬頭観音」「猿田彦」などの猿と関連づけられた“看板”を獲得しながら普及する中で、後世の日本人の信仰が形づくられてきたのだという[32]。なお、再度南方によれば、日本独特の民間信仰である庚申信仰で祀られる主尊・青面金剛とは、ラーマーヤナ説話の主人公・ラーマの本体たるヴィシュヌ神が日本で転化したものであり、青面金剛の足元にたびたび描かれる三匹の猿、「見ざる、言わざる、聞かざる」のいわゆる三猿は、ラーマに仕えたハヌマーンの変形に他ならない[29][32]。とはいえ当然ながら、日本の信仰に表れる三猿は、まぎれもなく尻尾の短いニホンザルである。
馬と猿、猿曳き「厩神」も参照

日本には古来、猿は馬を守る守護者であるとする伝承があった。たとえば「猿は馬の病気を防ぐ」として、大名屋敷などでは厩において猿を舞わせる習慣があった[33]が、こうした猿の舞を生業とする猿曳き(後の猿回し)は、柳田國男によれば、元来“馬医”をも生業に兼ねていた[32]

柳田はまた「厩猿(まやざる)」と呼ばれる習俗を紹介している。これは東北地方に見られる風習で、馬(や牛)の健康、安産、厩の火除けなどを願って猿の頭蓋骨や手、あるいは絵札などを厩に飾るもの[34]。柳田によればこれは非常に古い伝統で、元来は実物の猿を厩につないでいたものだった[35]。厩に猿を飼う風習は古く『梁塵秘抄』や『古今著聞集』にも例があり[35]、また類似の習俗は中国やタイにもあったという[35]

洛中洛外図屏風(16世紀)に描かれた猿曳きと猿。

庚申信仰の主尊・青面金剛が二匹の猿を従えている。上部には日月を表す二つの円、下部には鶏も見える。江戸時代。

同じく青面金剛。こちらの懸画では猿は「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿になっている。

山王信仰(日吉信仰)の流れを汲む東京・永田町日枝神社にある猿像。神の使いとされ、狛犬像にかわって神前を守っている。

有名な“日光の三猿”。実はこのレリーフがあるのは「神厩舎」と呼ばれる厩舎であり、「猿が馬を守る」という民間信仰はここにも反映している。

大衆文化とニホンザル

ニホンザルは比較的身近な生き物であったことから、大衆文化にもよく登場する。『靱猿』(うつぼざる)は狂言の曲で、毛皮でをこしらえるために猿をほしがる大名と猿曳き、そして子役の演じる猿が登場する著名な演目だが、猿自身が主役となる『猿聟』のような曲も狂言にはある。『桃太郎』『さるかに合戦』などの有名な説話においても猿は重要な役割を演じている。ほかにも川柳におもしろおかしく詠まれたり、身近な日用品などのモチーフとしても、猿の意匠はさまざまに使われてきた。猿の尻木枯らししらぬ紅葉かな (犬筑波集)

「(悪事を)見ざる、言わざる、聞かざる」を象徴するとされるいわゆる「三猿」は、前述のとおり庚申信仰との関わりが深いが、もとは論語の教えや天台宗の教義が日本国内において猿と結びついたものかという。左甚五郎作と伝える日光東照宮のレリーフが世界的によく知られており、現在では三猿のモチーフは世界各国で見られるようになっている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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