ニホンザル
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和歌山県で観光施設から脱走した個体に由来するタイワンザルが数十年にわたって定着(1970年代には確認されている)し、1998年には中津村(現:日高川町)で赤血球酵素の電気泳動法やミトコンドリアDNA塩基配列などによる検査から本種との交雑個体が確認された[21]。青森県でも1950年代から1971年までは十和田市・以降は野辺地町で放獣されていたタイワンザルの飼育個体(2004年に全頭除去)の中に大間町で発信機をつけて放獣された本種のオスがいることが判明し、同様の検査により2頭(うち1頭は母親が交雑個体だったとされる)の交雑個体が発見されている[22]。房総半島では1995年に館山市や白浜町(現:南房総市)でマカク類の群れが発見され、2003年にはミトコンドリアDNAの分子系統推定からこれらがアカゲザルであるということが判明し、2002 - 2004年にかけて分子系統解析から館山市・白浜町・市川市で計9頭の本種とアカゲザルとの交雑個体が確認された[23]。このうち8頭は館山市・南房総市で発見されたためアカゲザルの集団に本種のオスが加わったことでアカゲザルのメスが産んだ個体だと考えられているが、2004年に市川市で発見された個体は本種のメスが産んだ交雑個体であることが示唆されている[23]高宕山自然動物園で2016年に行われた164頭の全頭調査では、57頭が交雑個体という解析結果が得られた[24]。1977年に霊長目単位で、ワシントン附属書IIに掲載されている[2]。日本では1934年幸島宮崎県串間市)が「幸島サル生息地」、1953年に高崎山が「高崎山のサル生息地」、1956年に臥牛山、高宕山を中心にした丘陵、箕面山がそれぞれ「臥牛山のサル生息地」「高宕山のサル生息地」、「箕面山のサル生息地」、1970年に下北半島北西部および南西部の個体群およびその生息地が「下北半島のサルおよびサル生息地」として国の天然記念物に指定されている[9]
M. f. fuscata ホンドザル
LEAST CONCERN (IUCN Red List Ver. 3.1 (2001))[3]
北奥羽・北上山系のホンドザル
1947年に禁猟となるまでの乱獲によって東北地方の個体群は激減し、1998年までは「東北地方のホンドザル」としてレッドリストに掲載されていた[25]。東北地方の個体群は分布が拡大・生息数は回復傾向にあるが、北上山系の五葉山に小規模な隔離個体群が存在し、奥羽山脈北部でも現状が不明な群れが存在するとされる[25]。森林伐採、スギやカラマツといった針葉樹の植林、ニホンジカによる植生の改変による影響が懸念されている[25]。五葉山およびその南側の準平原は県立自然公園に指定されている[25]。五葉山での2008年における生息数は群れ4つで73頭とされる[25]。絶滅のおそれのある地域個体群(環境省レッドリスト[25]
金華山のホンドザル
ニホンジカによる植生の改変による影響が懸念されている[25]。生息地は三陸復興国立公園に指定されている。1967年における生息数は群れ1つで約70頭、1983年における生息数は群れ5つで270頭(1983 - 1984年の冬季に約180頭まで減少)、1994年における生息数は群れ6つで約300匹、2003 - 2005年における生息数は156頭、2007年における生息数は群れにいない個体も含めて259頭と推定されている[25]。絶滅のおそれのある地域個体群(環境省レッドリスト[25]
M. f. yakui ヤクシマザル
LEAST CONCERN (IUCN Red List Ver. 3.1 (2001))[3]

日本ではマカカ属(マカク属)単位で、特定動物に指定されている(特定外来生物に指定されているアカゲザル・カニクイザル・タイワンザルを除く)[26]


日本のサル学の発祥の地は「高崎山自然動物園」のある高崎山(大分県大分市)ともいわれる[27][注 1]
文化の中のニホンザル明治時代に描かれた錦絵風の『桃太郎』のイラスト。1886年。

この節の加筆が望まれています。

2015年(平成27年)2月2日発行の5円普通切手の絵柄として採用された[28]
呼び名

日本語「猿(さる)」は、元来ニホンザルを指して使われた呼び名であった。異称は「ましら」で、和歌などでは盛んに使われる。南方熊楠によればこれは梵語に由来するものかという[29]。わびしらに ましらな鳴きそ あしびきの 山のかひある 今日にやはあらぬ (凡河内躬恒古今和歌集 R雑体 #1067)

また俗に「エテ公」などとも言うが、これは一種の忌み言葉で、猿が「去る」に通じるのを避けて「得手」と呼んだことが起源とされる[30]。南方がかつて熊野川を船で下ったとき、船頭は猿を「野猿(やえん)」「エテ吉」と呼び、決して「猿」の名を口にはしなかったという[29]。上記のように「猿が去るに通じる」のを避けるため「エテ」などの別名で呼んだとされるが、「猿」を忌み言葉とする文化は日本以外のアジア圏でも確認できるため、本来はそこに別の意味があったのではないかと考えられる。

いっぽうで、続日本紀に見える柿本朝臣佐留、歌人の猿丸大夫上杉謙信の幼名「猿松」、前田利常の幼名「お猿」など、日本人の名には「猿」を戴くものもあるのだが、南方によればこれは、古く猿をトーテムとする家族が多かった名残であろうという[29]。歌人や演者には「猿」を名前に入れる人が多く、古く日本全体で必ずしもすべての人が「猿」を忌み言葉にしていたのではないことがうかがえる。
山神としてのニホンザル「猿神」も参照

猿は古来“山神”とされた[注 2][32]。猿は他の獣とは違って人の異形にして縮小態であり、それゆえに、山神の使者、あるいは神そのものとされたのも自然な成り行きであった[32]

南方によれば、田畑を荒らされるのを防ぐために猿に餌をやったことが、かえって猿は田畑の守り神であると認知させることになったのだという[32]。また日吉信仰はおそらくその字のとおり太陽崇拝に関係しており、日の出とともに騒ぎ出す猿は日神の使者と考えられたのではないかという[29][32]中村禎里によれば、猿神が日本土着の起源をもつことは、これが日吉系の各社にかぎらず浅間など各地で山神信仰と結びついていることからも明らか[32]だが、そうした山神としての猿信仰が、仏教とともに流入したインドの土俗神とおそらく習合し、さらに「日吉」「庚申様」「馬頭観音」「猿田彦」などの猿と関連づけられた“看板”を獲得しながら普及する中で、後世の日本人の信仰が形づくられてきたのだという[32]。なお、再度南方によれば、日本独特の民間信仰である庚申信仰で祀られる主尊・青面金剛とは、ラーマーヤナ説話の主人公・ラーマの本体たるヴィシュヌ神が日本で転化したものであり、青面金剛の足元にたびたび描かれる三匹の猿、「見ざる、言わざる、聞かざる」のいわゆる三猿は、ラーマに仕えたハヌマーンの変形に他ならない[29][32]。とはいえ当然ながら、日本の信仰に表れる三猿は、まぎれもなく尻尾の短いニホンザルである。


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