ニッコロ・マキアヴェッリ
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ニッコロ・マキャヴェッリ(イタリア語: Niccolo Machiavelli, 1469年5月3日 - 1527年6月21日)は、イタリアルネサンス期の政治思想家フィレンツェ共和国外交官

著書に『君主論[6]、『ティトゥス・リウィウスの最初の十巻についての論考(ディスコルシ)』、『戦術論』がある。理想主義的な思想の強いルネサンス期に、政治宗教道徳から切り離して考えるべきであるという現実主義的な政治理論を創始した。日本語では「マキャヴェリ」「マキャベリ」「マキァヴェリ」「マキァヴェッリ」など様々な表記が見られる。
生涯

1469年、貴族であり法律家の父ベルナルド・ディ・ニッコロ・マキャヴェッリとその妻バルトロメーア・ディ・ステーファノ・ネッリの3人目の子として生まれた[7]。マキャヴェッリ家はフィレンツェ共和国の要職を幾人か輩出した名家であり[8]、一説にはトスカーナの旧侯爵家の子孫であるともされる[9]。父ベルナルドは弁護士で年収は110フィオリーノ。貧しい階級のものではないが、絶対に裕福な家庭の者でもなかった。いわゆる中流ではあるが、マキャヴェッリ本人は「私は貧しく生まれた。だから、楽しむより先に、苦労することを覚えた」と後年記している[要出典]。マキャヴェッリは他の兄弟たちと共に父母の愛情に包まれ、上流階級の必須教養であったローマギリシャ古典やラテン語等を学んで育った。その青少年期は、大ロレンツォによる独裁、大ロレンツォ死後に発生したメディチ家追放(1494年)、サヴォナローラの神政とその失脚・処刑(1498年)等、フィレンツェ共和国の激動期に重なる[10]

1498年5月18日、マキャヴェッリはピエロ・ソデリーニ政権下の第2書記局官に選出され、すぐに書記長となった[11]。マキャヴェッリが属した第2書記局は内政軍政を所轄し、自身が各国との交渉に関わることも多い。同年7月14日、「自由と平和のための十人委員会」秘書官に任命される。ほぼ同時期に統領秘書官にも任命される。1499年5月頃、『ピサ問題に関する論考』を書く[12]。かつてのピサ共和国はイタリアの四大海洋共和国(イタリア語版、英語版)の一角を成す存在であり[注釈 1]を持たないフィレンツェにとっては、ピサの港が自由につかえることが必要であり、ピサがコントロール下から離れたことが問題となっていた。この難題に対し、マキャベリは論考を書物にして4ページ半の小文に、簡潔明瞭にまとめた。「もしも、フィレンツェが自由でありたいと望めば、ピサは再領有は実現されるべきである」と冒頭で述べ、さらに包囲戦のあり方から、攻撃拠点に配置する兵の数をまで拠点ごとに論じている。

1499年6月、チッタ・ディ・カステッロ領主にして傭兵隊長であるパオロ・ヴィテッリをフィレンツェ共和国軍最高司令官に任命し、ピサに軍事侵攻を開始した。十人委員会は悪評高く、選挙さえ行われていなかったため有名無実化しており、その中でマキャヴェッリは統領と官僚に直接指揮をあおぎ、仕事をこなしていた。8月16日には、砲撃でピサ市壁を24メートルにわたって破壊し、8月10日に市壁を守る砦の一つを陥落させる。しかし、再領有目前になったこの時期に最高司令官ヴィテッリが自分の率いる傭兵団を撤退させ、他の傭兵隊長たちも軍事行動を中断した。マラリアで倒れた兵が出たことを期に、9月14日に完全撤退した。市街戦での兵力消耗を嫌った傭兵隊長らしい行動の結果の崩壊であった[要出典]。9月29日、ヴィテッリは逮捕される。罪状は、反逆罪[注釈 2]、理由なき戦線離脱、ピサ防衛についていた敵側傭兵隊長を逃したことの3点である。10月1日、ヴィテッリは処刑された。10月15日、フィレンツェ共和国は、9月11日にミラノを占拠したフランス王ルイ12世と同盟を結ぶ。フィレンツェは、フランス王がナポリ攻略に必要な5千人のスイス傭兵と5百の騎兵を金で準備し、代わりにフランス王はナポリ攻略前に、フィレンツェにピサ攻略のためにスイス傭兵5千人を貸し与える[注釈 3]という内容だった。

1500年ピサ戦役[注釈 4]にマキャヴェッリはフィレンツェ軍顧問の副官として参加した。集結地点パルマにきたフランス王の兵は、スイス兵4千人とガスコーニュ兵2千人であった(協約違反)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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