ニッコロ・マキアヴェッリ
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副官として従軍していたマキャヴェリは、ダ・ヴィンチの案を採用し、1504年から工事に取り掛からせたが、当時の土木技術には限界があり、アルノ川の流路変更工事は失敗に終わった[14]
年表

1469年:フィレンツェに生まれる。

1498年:共和国政府の第2書記局長になる(1512年まで)。また「自由と平和のための十人委員会」秘書官、統領秘書官も兼任。

1499年:フィレンツェ共和国はパオロ・ヴィテッリを最高指揮官としてピサに攻め入る。市壁を打ち破ったところで不可解な撤退。ヴィテッリ死刑。十人委員会秘書官として多忙を極める。

1500年:フィレンツェ軍顧問の副官として、フランス王配下の兵を借りてピサ戦役に参加。戦役失敗によりフランス王が一方的に同盟破棄。弁明のための使節副官としてフランスへ赴く。

1502年:教皇軍のチェーザレ・ボルジアが
ウルビーノを征服(フィレンツェはフランスに支援を要請)。使節としてチェーザレと交渉し、和議を結ぶ。

1503年:(教皇アレクサンデル6世死去、チェーザレ失脚)。

1504年:市民兵の創設を主張。

1506年:市民兵の軍部秘書になる。コンタード(イタリア語版)の農民を徴兵。

1511年:(教皇ユリウス2世神聖同盟でフランスに対抗)。フランスに使節として赴く。

1512年:市民兵はスペイン軍に敗退。メディチ家のフィレンツェ復帰に伴い、失職。『リヴィウス論』に着手。

1513年:反メディチ陰謀の容疑(ボスコリ事件)で拘束され拷問を受けるが、まもなく釈放。『君主論』を脱稿。

1520年:ジュリオ・デ・メディチ(後の教皇クレメンス7世)の依頼で『フィレンツェ史(イタリア語版、英語版)』の執筆を始める(1525年まで 未完)。

1527年:(ローマ略奪の報がフィレンツェに伝わりメディチ家再追放)。死去。

主な著作1518年に発刊された「ディスコルシ」「w:Niccolo Machiavelli#Works」も参照
政治・歴史学的著作

ピサ攻囲論
(英語版)(Discorso sopra le cose di Pisa) (1499年)

キアーナ渓谷地方の反徒の処遇策について(英語版)(Del modo di trattare i popoli della Valdichiana ribellati) (1502年)

Descrizione del modo tenuto dal Duca Valentino nello ammazzare Vitellozzo Vitelli, Oliverotto da Fermo, il Signor Pagolo e il duca di Gravina Orsini (1502)

Discorso sopra la provisione del danaro (1502年)

Ritratti delle cose di Francia (1510年)

Ritracto delle cose della Magna (1508年?1512年)

君主論 (Il Principe)(1513年、没後の1532年刊行))

ティトゥス・リウィウスの最初の十巻についての論考(Discorsi Sopra La Prima Deca Di Tito Livio) (1517年)リウィウス論、ローマ史論、ディスコルシ、政略論 とも称される

戦術論 (Dell'arte della guerra) (1519年?1520年)

en:Discorso sopra il riformare lo stato di Firenze (1520年)

Sommario delle cose della citta di Lucca (1520年)

カストルッチョ・カストラカーニ伝(英語版)(Vita di Castruccio Castracani)(1520年)

フィレンツェ史(イタリア語版、英語版) (Istorie fiorentine)(1520年?1525年)

戯曲等フィクション

マキャベリには政治学関係の著作のほかにも、戯曲や詩、小説といった著作も存在する。

Decennale primo
(1506年) ? 三韻句法の詩

en:Decennale secondo (1509年) ? 詩

Andria(1517年)

マンドラゴラ (La mandragola)(1518年) ? 戯曲

クリツィア(英語版)(Clizia) (1525年) ? 戯曲

大悪魔ベルファゴール(英語版)(Belfagor arcidiavolo) (1515年) ? 小説

Asino d'oro(1517年)

Frammenti storici (1525年)

主な訳書

君主論 (Il Principe, 没後の1532年刊行)

『君主論』(河島英昭訳、岩波文庫、1998年、ワイド版2001年)

『君主論』(池田廉訳、中公文庫、改版2002年、新版2018年)。他に「全集1」[注釈 9]

『 ⇒君主』(永江良一訳。英訳版からの重訳)


ティトゥス・リウィウスの最初の十巻についての論考(Discorsi Sopra La Prima Deca Di Tito Livio)

リウィウス論、ローマ史論、ディスコルシ、政略論 とも称される

永井三明訳(ちくま学芸文庫(改訳版)、2011年)。元版は「全集2」



戦術論 (Dell'arte della guerra)

『戦争の技術』(服部文彦訳、ちくま学芸文庫、2012年)。元版は「全集1」

『マキアヴェッリ 戦略論大系13』石黒盛久訳・編著、戦略研究学会編(芙蓉書房出版、2011年)


フィレンツェ史(イタリア語版、英語版) (Istorie fiorentine)

「フィレンツェ史」(齊藤寛海訳、岩波文庫(上下)、2012年)[注釈 10]

「フィレンツェ史」(米山喜晟・在里寛司訳、ちくま学芸文庫(上下)、2018年)。 元版は「全集3」


戯曲 マンドラゴラ (La mandragola)

脇功訳(「全集4」に収録、筑摩書房、1999年)


『マキァヴェッリ全集』(全6巻+補巻、筑摩書房、1998年-2002年)。全著作を訳注

影響

マキャベリの思想は、後世に巨大な影響を与えた。『君主論』は政治学における古典的な名著となっており[15]国際関係論における政治的リアリズムの先駆的論者として知られ[16]、また共和主義思想の源流の一つともされる[17]。マキャベリの政治思想はマキャベリズムと称されるようになり、転じて目的のためには手段を選ばず権謀術数の限りを尽くすやり方のこともマキャベリズムと呼ぶようになった[18]
評価

日本倫理学者東京高等師範学校教授・東京帝国大学助教授の友枝高彦(1876 - 1957)は、「正義といい人類愛といい、人類の間の最も望ましい美徳であることは、昔から宗教でも道徳の方でも高調されているところである。…この事実に対する解説として自然性論というべき一派がある。それは人類は本来利己的であって同胞と協同するも親和するも畢竟利己の為に外ならないようにいうのである。…人類は互いに狼であるとホッブスのいったのは、全く利己的見地から解釈するのであって、国際間には道徳なく、ただ欺瞞、暴力あるのみと考えたマキャベリも同じ考であるといわねばならぬ」としてマキャベリの論を否定した[19]
脚注
注釈^ 残る3か国は、アマルフィ共和国ジェノヴァ共和国ヴェネツィア共和国
^ 復帰を狙うメディチ家とそれを支援するヴェネツィア共和国に通じていた
^ ただし費用はフィレンツェ持ち
^ "Discorso sopra le cose di Pisa" に記録
^ 実際には加担していなかったとされる
^ 拷問の中ではさほど残酷な部類には入らない
^ 山荘はフィレンツェ・シエナ間に広がるキャンティ地方にあり、ワインの産地である。現在、マキャヴェッリの子孫の娘の再婚先であったセリストーリ伯家が、山荘とそれに付随した農園を相続していて、マキャヴェッリの横顔を商標にした「キャンティ・クラシコ」を販売している。しかし、マキャヴェッリの時代は、ワイン販売が事業として成り立つとは誰も考えていなかったようで、ワインでひと稼ぎとはいかなかったようである。
^ 大赦によりフィレンツェ市内からの1年の追放刑も赦されていたので、マキャヴェッリが追放されたという説は疑問である。また、マキャヴェッリ自身「失業して給料が入らなくなり、これでは、にわとりでも飼って口をしのぐしかない」と書いている
^ 新版解説は佐藤優。他に『君主論』の主な訳注は、佐々木毅訳(講談社学術文庫、2004年)、森川辰文訳(光文社古典新訳文庫、2017年)。


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