ニッコロ・マキアヴェッリ
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所有地からのあがりだけで悠々自適でいられる身分になかったマキャヴェッリにとって、財産はフィレンツェ市内の家とサンタンドレアにある山荘だけであった[注釈 7]。当時フィレンツェ近郊の山荘では、小麦と衣服以外は自給自足できるのが一般的であり、それがあってか、マキャヴェッリは葡萄やオリーブの収穫時期ぐらいにしか行かなかった山荘に、家族7人(本人・妻・子供5人)で移り住む[注釈 8]

43歳にして隠遁生活に入らざるをえなかったマキャヴェッリは、昼間は農業に勤しんだり、近くの庶民と交わり賭け事等をして時を過ごし、日が落ちると読書、執筆三昧の日々を送った。当時の生活ぶりは、1513年12月10日に、ローマ法王庁にフィレンツェ政府より大使として赴任していた、親友のフランチェスコ・ヴェットーリへの一通の手紙から窺える。イタリア文学史上、最も有名で美しい手紙の一つとされているが、になると官服に着替えて『君主論』と題した小論文をまとめていることを述べている。

執筆活動は政治・歴史・軍事から劇作までに及び、喜劇は大好評を博して著作家としての名声を得た。

マキャヴェッリは、「私は我が魂よりも、我が祖国を愛する」と友人であるフランチェスコ・ヴェットーリ宛の書簡に記した[13]ように愛国者を自認しており、いつでもフィレンツェのために役立ちたいと公言していた。元来、陽気でお喋りで、飲む・打つ・買うが大好き、また良き夫、良き父親、仕事好きでめげないマキャヴェッリは、独裁的なメディチ家が君臨する新政権下への就職活動を模索するようになった。

マキャヴェッリは共和制支持派と見られていたので、かつての同僚や彼に批判的な人の中には、メディチ政権への猟官運動を冷淡に見る者もいた。新たにフィレンツェの支配者となったジョヴァンニ・デ・メディチ、またその後任者ジュリアーノ・デ・メディチの方でも、長く前政権下の政務に携わったマキャヴェッリを用いることはしなかった。

1516年に死去したジュリアーノ・デ・メディチの後任にロレンツォ・デ・メディチが就任すると、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}マキャヴェッリに謁見の機会が与えられた。謁見の場でマキャヴェッリがロレンツォ・デ・メディチに献上した[要出典]のが『君主論』である。ロレンツォ・デ・メディチに献上された本『君主論』には、君主たるものがいかにして権力を維持し政治を安定させるか、という政治手法が書き記されている。

マキャヴェッリの理論は「フォルトゥーナ」(Fortuna, 運命)と「ヴィルトゥ」(Virtu, 技量)という概念を用い、君主にはフォルトゥーナを引き寄せるだけのヴィルトゥが必要であると述べた。『リウィウス論』では古代ローマ史を例にとり、偉大な国家を形成するための数々の原則が打ち立てられている。全てにおいて目的と手段の分離を説いていることが著作当時において新たな点であった。共和主義者のマキャヴェッリであったが、スペインとフランスがイタリアを舞台にして戦うイタリア戦争に衝撃を受けた。彼が体験した挫折感と、独立を願って止まない情熱の存在があったからこそ、『君主論』が生まれたといわれる。マキャヴェッリは『君主論』の中で、混乱するイタリアにあって国を治めるために、自国軍創設や深謀遠慮の重要性を故事を引き合いに出して説いている。理想の君主チェーザレ・ボルジアを例示して、イタリア半島統一を実現しうる君主像を論じた。

チェーザレ・ボルジア失脚当時には、マキャヴェッリも「かつての公爵とは千年の隔たりを感じる」と冷たい評価を下しながらも、『君主論』26章では、チェーザレについて次のような言葉を残す。「今までに、ある人物の中に、神がイタリアの贖罪をあがなうよう命じられでもしたかのような、ひとすじの光が射したことがあった。だが、残念なことにこの人物は、その活動の絶頂期に運に見放されてしまったのである」。そしてそれに続く言葉は、「こうして息絶えだえのイタリアは、今自らの傷を癒してくれる人を望んでいる」であり、とどめにメディチ家に対して「今日、ご尊家がこの贖罪行動の先頭に立つ他に、イタリアの期待に応えられる人がどこにあろうか」と激励を送った。

1520年、マキャヴェッリ理論の傾倒者が多く、首謀者に含まれた反メディチの陰謀オルティ・オリチェラーリ事件(イタリア語版)が発生したが、ロレンツォの後任者ジュリオ・デ・メディチ(後のクレメンス7世)は、マキャヴェッリの事件への関与を一切問うことをしなかったばかりか、著作家として才能を開花させていたマキャヴェッリに『フィレンツェ史(イタリア語版、英語版)』の執筆を依頼した。

このようにメディチ家政権下で顧問的に用いられるようになったマキャヴェッリだったが、1527年5月6日に発生したローマ略奪でメディチ家がフィレンツェから追放されると、マキャヴェッリもまた政権から追放されるはめになった。一貫した共和制支持派からは「メディチ家に擦り寄った裏切り者」、ある者からは「目的のためには手段を選ばない狡猾者」と非難され、失意のうちに病を得て翌月に急死した。
軍事理論ウフィツィ美術館にあるマキャヴェッリ像

マキャヴェッリはその軍事思想を『君主論』、また『政略論』や『戦術論』に記している。その特徴として以下のことが挙げられる。
軍事力の重要性を論じている。『君主論』において君主に必要なものとして法律とともに軍備が挙げられている。また傭兵軍ではなく常備軍の編制を重視し、また騎兵ではなく歩兵の有効性を論じてもいる。

軍事訓練の重要性を論じている。マキャヴェッリは軍事訓練を錬度に合わせて段階的に実施することを述べており、第1段階に整列の動作の訓練、第2段階に整列行進の動作の訓練、第3段階に戦闘訓練、第4段階に信号や命令伝達の教育としている。

司令官の軍事的統率能力の重要性を論じている。これは統率論として軍隊の団結に司令官の統率力が直結すると述べられており、血筋や権威ではなく、勇敢や善行がこの統率力を強化すると考えている。また演説の能力も求められるとしている。

フィレンツェ共和国はピサに攻勢を仕掛け、ピサを包囲したが、ピサ側はアルノ川の舟運を使って海から物資を運び入れた。軍事にも関心のあったレオナルド・ダ・ヴィンチは、アルノ川の流路を迂回させピサを経由しないようにする作戦を立案した。副官として従軍していたマキャヴェリは、ダ・ヴィンチの案を採用し、1504年から工事に取り掛からせたが、当時の土木技術には限界があり、アルノ川の流路変更工事は失敗に終わった[14]
年表

1469年:フィレンツェに生まれる。

1498年:共和国政府の第2書記局長になる(1512年まで)。また「自由と平和のための十人委員会」秘書官、統領秘書官も兼任。

1499年:フィレンツェ共和国はパオロ・ヴィテッリを最高指揮官としてピサに攻め入る。市壁を打ち破ったところで不可解な撤退。ヴィテッリ死刑。十人委員会秘書官として多忙を極める。

1500年:フィレンツェ軍顧問の副官として、フランス王配下の兵を借りてピサ戦役に参加。戦役失敗によりフランス王が一方的に同盟破棄。弁明のための使節副官としてフランスへ赴く。

1502年:教皇軍のチェーザレ・ボルジアが
ウルビーノを征服(フィレンツェはフランスに支援を要請)。使節としてチェーザレと交渉し、和議を結ぶ。

1503年:(教皇アレクサンデル6世死去、チェーザレ失脚)。

1504年:市民兵の創設を主張。

1506年:市民兵の軍部秘書になる。コンタード(イタリア語版)の農民を徴兵。

1511年:(教皇ユリウス2世神聖同盟でフランスに対抗)。フランスに使節として赴く。

1512年:市民兵はスペイン軍に敗退。メディチ家のフィレンツェ復帰に伴い、失職。『リヴィウス論』に着手。

1513年:反メディチ陰謀の容疑(ボスコリ事件)で拘束され拷問を受けるが、まもなく釈放。『君主論』を脱稿。

1520年:ジュリオ・デ・メディチ(後の教皇クレメンス7世)の依頼で『フィレンツェ史(イタリア語版、英語版)』の執筆を始める(1525年まで 未完)。

1527年:(ローマ略奪の報がフィレンツェに伝わりメディチ家再追放)。死去。

主な著作1518年に発刊された「ディスコルシ」「w:Niccolo Machiavelli#Works」も参照
政治・歴史学的著作

ピサ攻囲論
(英語版)(Discorso sopra le cose di Pisa) (1499年)

キアーナ渓谷地方の反徒の処遇策について(英語版)(Del modo di trattare i popoli della Valdichiana ribellati) (1502年)

Descrizione del modo tenuto dal Duca Valentino nello ammazzare Vitellozzo Vitelli, Oliverotto da Fermo, il Signor Pagolo e il duca di Gravina Orsini (1502)

Discorso sopra la provisione del danaro (1502年)

Ritratti delle cose di Francia (1510年)

Ritracto delle cose della Magna (1508年?1512年)

君主論 (Il Principe)(1513年、没後の1532年刊行))

ティトゥス・リウィウスの最初の十巻についての論考(Discorsi Sopra La Prima Deca Di Tito Livio) (1517年)リウィウス論、ローマ史論、ディスコルシ、政略論 とも称される

戦術論 (Dell'arte della guerra) (1519年?1520年)

en:Discorso sopra il riformare lo stato di Firenze (1520年)

Sommario delle cose della citta di Lucca (1520年)

カストルッチョ・カストラカーニ伝(英語版)(Vita di Castruccio Castracani)(1520年)

フィレンツェ史(イタリア語版、英語版) (Istorie fiorentine)(1520年?1525年)

戯曲等フィクション

マキャベリには政治学関係の著作のほかにも、戯曲や詩、小説といった著作も存在する。

Decennale primo
(1506年) ? 三韻句法の詩

en:Decennale secondo (1509年) ? 詩

Andria(1517年)

マンドラゴラ (La mandragola)(1518年) ? 戯曲

クリツィア(英語版)(Clizia) (1525年) ? 戯曲

大悪魔ベルファゴール(英語版)(Belfagor arcidiavolo) (1515年) ? 小説

Asino d'oro(1517年)

Frammenti storici (1525年)

主な訳書

君主論 (Il Principe, 没後の1532年刊行)

『君主論』(河島英昭訳、岩波文庫、1998年、ワイド版2001年)

『君主論』(池田廉訳、中公文庫、改版2002年、新版2018年)。他に「全集1」[注釈 9]


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