ニジェール
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ディオリは建国後すぐに他の政党を禁止して一党制を敷くとともに、親仏的立場を採りながらアフリカの有力政治家として外交で活躍したものの内政は停滞を続け、1970年代の大旱魃によって国内情勢は不安定化した[4]
軍政期(最高軍事評議会)

1974年4月、陸軍セイニ・クンチェ参謀長がクーデターによって軍事政権である「最高軍事評議会」を樹立し、同評議会の議長に就任した。憲法は停止され、議会・政党活動も中止された。クンチェ政権のもとでは北部のアーリットウランの生産が開始され、また旱魃が収まったため1980年ごろまで経済は成長を続けたが、その後はまた旱魃が起き、ウラン価格の低迷もあって経済は再び停滞した。1987年11月にはクンチェ参謀長が死亡し、アリー・セブが後継者となった。
セブ政権

そのセブは1989年社会発展国民運動を結成して民政移管を目指し、同年9月の国民投票で新憲法が承認され、12月の選挙でアリー・セブが大統領に選出されて形式的に民政移管したものの、非民主的な体制はそのままだった。1990年、中央政府の資源独占に不満を持つトゥアレグ族とトゥーブゥー族(英語版)の反政府勢力との間でトゥアレグ抵抗運動(英語版)が勃発した。
ウスマン政権

1991年になると民主化運動が激しくなり、セブ政権は民主化にとりかかった。1992年12月に新憲法が国民投票で承認されて複数政党制が認められ、1993年2月の議会選で6党の連合体「変革勢力同盟」が、軍事政権時代の与党社会発展国民運動(MNSD)」に勝利した[5]。3月の大統領選挙では民主社会会議(CDS)のマハマヌ・ウスマン党首が当選。4月にマハマドゥ・イスフニジェールの首相に就任した。

1995年1月の総選挙ではMNSDなどの野党連合が勝利し、2月にハマ・アマドゥ(英語版)MNSD書記長が首相に就任。4月、自治を求めるトゥアレグ族およびトゥーブゥー族(英語版)反政府勢力と和平合意した。
軍政期(救国委員会)

1996年1月、軍のクーデターでイブライム・バレ・マイナサラ陸軍参謀長を議長とする「救国委員会」が軍事政権を樹立。
マイナサラ政権

7月の大統領選挙でマイナサラ議長がウスマン前大統領を破り当選。12月マイナサラ大統領は救国委員会を解散、アマドゥ・シセ(英語版)前経済相を首相に任命したが、1997年11月には野党との対立やストライキ問題を解決できないとして解任し、イブライム・ハッサン・マヤキ(英語版)外相を新たな首相とした。
軍政期(国家和解評議会)

1999年4月、再び軍がクーデターを起こし、大統領警護隊がニアメの空港でマイナサラ大統領を銃殺した。そして警護隊隊長のダオダ・マラム・ワンケ少佐を議長とする軍事政権「国家和解評議会」が実権を掌握。議会を解散し、憲法を停止した。軍事政権による憲法草案の是非を問う国民投票が7月に行われ、約90%の支持で承認された。新憲法は大統領と首相の権力分担を規定した。
ママドゥ政権トゥアレグ抵抗運動 (2007年-2009年)(英語版)

10月の大統領選挙で軍の元幹部で MNSD党員のタンジャ・ママドゥが当選した。ママドゥ大統領は12月、MNSD書記長のハマ・アマドゥ(英語版)元首相を首相に任命した。

2000年3月、マハマドゥ・イスフ元首相が率いるニジェール民主社会主義党(PNDS)を中心とした野党勢力が「民主勢力連合」(CFD)を結成。6月 MNSD など大統領支持勢力が議会多数派の「民主勢力同盟(AFD)」を結成した。2001年2月、大学への政府補助金を50%以上削減に抗議した学生が各地でデモ、警官隊と衝突。政府はアブドゥ・ムムニ大学(英語版)(旧ニアメ大学)を閉鎖。4月、マイナサラ大統領銃殺事件の捜査を求める支持者ら数千人が首都でデモを行う。2002年7月、賃金や待遇に抗議した軍兵士が南東部のディファで反乱を起こし、ラジオ局を占拠。政府は同月のうちに、ディファに非常事態宣言を発令した。反乱は8月にはニアメにも拡大したが、政府軍が鎮圧。200人以上の兵士が逮捕された。

ニジェール川のレテ島(英語版)の帰属問題をめぐり、ベナン国境紛争を抱える。2000年5月、島に建設中のベナン政府施設をニジェール軍が破壊。6月に双方が会談したが決裂し、アフリカ統一機構(OAU、現アフリカ連合)などに仲裁を要請し、2001年6月、両国は結論を国際司法裁判所(ICJ)の判断に委ねることで合意した。

2004年末の大雨でサバクトビバッタが発生した結果(「サバクトビバッタの大量発生(英語版)(2003年 - 2005年)」、「2003-2005年の蝗害」)、マラディタウアティラベリザンデールで食糧危機(英語版)が起こった(サヘル旱魃(英語版)を参照)。2007年にはトゥアレグ抵抗運動(英語版) が再燃した。

ママドゥ大統領は2009年8月4日に新憲法制定に関する国民投票を行うと表明した。憲法裁判所は違法な決定と判断したが、ママドゥは憲法裁判所を解散させ、投票を強行する構えを見せた(en)。この国民投票は予定通り実施され、新憲法は採択された。これにより、2012年の新憲法施行までの3年間、ママドゥが現行憲法のもとで引き続き政権を率いることになり、更に現行憲法に存在した3選禁止規定が新憲法では削除されたことで、2012年以降もママドゥが大統領職に留まり続ける可能性が出てきた。
軍政期(民主主義復興最高評議会)

2010年2月、ママドゥ大統領が3期目を目指し任期延長を強行しようとしたことから、国内の緊張が悪化。2月18日、再び軍がクーデターを起こし、軍が大統領と閣僚を拘束。国軍高官が「民主主義復興最高評議会(Supreme Council for the Restoration of Democracy、CSRD)」による軍事政権の樹立を宣言し、憲法の停止と政府の解散の宣言、国境の閉鎖、夜間外出禁止令といった措置を採った[6]。このクーデターに対し国際社会は批判を強めたが、一方で数千人の市民が軍の兵舎の周囲に集まり「軍万歳」などと叫びながら軍事政権への支持を示すなど国民はクーデターを歓迎[7]サル・ジボが暫定国家元首に就任した。その後、軍事政権が採択した新憲法案が2010年11月の国民投票(英語版)で可決され、ママドゥの企図した大統領権限を強化する新憲法は葬り去られた[8]
イスフ政権

2011年4月7日、選挙による新大統領にニジェール民主社会主義党のマハマドゥ・イスフが選ばれた。なお、イスフ大統領は2016年の選挙で再選された[9]
バズム政権

イスフの任期満了に伴う総選挙(英語版)が2020年12月27日に実施されるも[10]、候補の中で過半数を獲得した者がいなかったため2021年2月21日にモハメド・バズムマハマヌ・ウスマンの決選投票が実施された。結果はバズムが55パーセントの票を獲得し当選した[11]。敗北したウスマン陣営は、選挙結果の不正を主張しデモ活動を実施した[12]。3月31日には一部の軍人によるクーデター未遂(フランス語版)が起きた[13]。背景には選挙への不信感や、3月21日にタウア州ティリア(フランス語版)で発生したイスラム系過激派組織ISILによる虐殺事件(フランス語版)[14]といったテロへの不安が挙げられる。

2021年4月2日、バズム大統領の就任式が執り行われた。民主的な選挙で選出された文民同士の政権交代はニジェールの歴史上初めてだった[15]。バズム大統領は翌日に新たな首相を指名し、新政権が発足した[16]


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