ニザール派
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当時のイスマーイール派は本拠地エジプトにおけるファーティマ朝の衰勢とは裏腹に、中央アジアイランイエメンシリアなどに教線をのばしていた。これら諸地域の大部分は分裂に際して、ファーティマ朝のムスタアリー派をとったが、イランとイラクおよびごく一部のシリアのイスマーイール派はニザールのイマーム位継承を支持した。彼らはファーティマ朝およびカイロのダアワとの絶縁を選び、独自のダアワを設立した。これをもってニザール派の成立とする。
イランのイスマーイール派とハサニ・サッバーフ

11世紀以降、サーマーン朝衰退後の中央アジアからイラン東部にかけて教勢を伸ばしたイスマーイール派は、1070年ころにはダイラム(Daylam)からホラーサーンにいたる地域で、勢力を蓄えていた。この時期はセルジューク朝の確立期にあたっており、スンナ派の正統性を強く主張するセルジューク朝は、イスファハーン近郊からセルジューク朝の領域を指揮するダーイー・アブドゥルマリク・イブン・アッターシュのイスマーイール派に対する圧力を強めつつあった。これに対しイスマーイール派は1090年ハサニ・サッバーフによるダイラムのアラムート城砦(英語版)奪取を皮切りに、各地で公然とセルジューク朝に対する反抗を開始し、セルジューク朝もイスマーイール派各拠点の包囲など大規模な鎮圧に乗り出していた。しかしセルジューク朝は1092年に宰相ニザーム・アル=ムルクが暗殺され、さらにスルタン・マリク・シャーが没すると内乱状態に陥ってしまう。イスマーイール派はこれに乗じて、イラン各地の山岳城砦などを攻略し、確固たる地歩を築くことになる(なお、ニザーム・アル=ムルクの暗殺に関しては『集史』以降イスマーイール派によるものともいわれるが、実情は不明である)。

この状況の中で活躍し、1094年ころまでにイラン方面のイスマーイール派で頭角を現したのがアラムート城砦を本拠としたハサニ・サッバーフである。ハサニ・サッバーフは1081年にエジプトから帰還して、イラン各地を旅し、1085年ころからダイラムで活動を始めた。1090年にはアラムート城砦を奪取。イスマーイール派はイラン各地にダーイーを派遣してアラムート同様に山岳城砦を中心とした防備の堅い渓谷など自治的領域を形成するという手法によってセルジューク朝に対抗した。このような領域はイラン北部アルボルズ山中やイラン南部フーゼスターンからファールスにかけてのザーグロス山中、そしてホラーサーン東部のクヒスターン(英語版)(Quhestan)などの地域内各所に形成された。またセルジューク朝支配下の地域でも、イスマーイール派の村は点在し、都市においてもイスマーイール派信徒は存在した。彼らはシーア派のタキーヤ(信仰秘匿)の伝統に従い、表向きスンナ派信徒として振る舞う一方、イスマーイール派であることを明らかにして戦う諸地域への援助を行っていた。この戦略は強大な軍事力をもつ一方で各都市統治者ごとの分権傾向がつよいセルジューク朝に対して非常に有効に機能した。こうしてイスマーイール派はイラン高原に自治領域を連ねて政治勢力を形成することに成功する。

イスマーイール派は同時にフィダーイー(自己犠牲を辞さない者という意味)による暗殺という手段を用いての敵対有力者の排除も辞さなかった。このためスンナ派の立場を重視する住民のあいだでは蛇蝎の如く忌み嫌われることになった。暗殺教団の言説におけるさまざまな伝説の素地はここにある。後代史料ではこの時期の暗殺はすべてイスマーイール派およびニザール派に結びつけられる傾向があるが事実として明らかになっているわけではない。また暗殺者の動機付けのための大麻使用については、アラビア語・ペルシア語などのスンナ派側の敵対的後代史料でも言及されておらず事実とはできない。(詳細は暗殺教団参照)。

1095年のファーティマ朝におけるイマーム=カリフ位を巡る争いで、ハサニ・サッバーフをはじめイラン方面のイスマーイール派は、ニザールを支持した。この要因をハサンのエジプト滞在時に当時の宰相バドル・アル=ジャマーリー(ニザールにかわってムスタアリーをカリフとした宰相アフダルの父で、ムスタアリーの義父)と確執を生じたため、と説明することもあるが、これは伝承の域を出ず、実情としてのニザール支持の背景は必ずしも明らかではない。しかし、イラン地域の現地ダアワはセルジューク朝との激しい対立関係の中で苦闘し、独自に確固たる地歩を築いてきた。さらにセルジューク朝との対立関係の背景には地元民の反テュルクの傾向もあった。こうしたイラン現地のダーイーたちがカイロのダアワに対する発言力を強め、ここにいたって独立ダアワを志向したとする説明も可能である。彼らはエジプトでのニザール支持派の早期の衰退に対し、イラン方面でアラムートを中心に長期にわたる政権を築くことになる。
アラムートのニザール派政権
ニザール派政権の確立

ファーティマ朝との関係を絶ったあと、ハサニ・サッバーフはイラン各地のイスマーイール派をアラムートを中心とする組織として整備する一方、奪取あるいは新設した城砦の維持と領域の拡大、シャリーアの厳格な施行に努めた。セルジューク朝の中心地のひとつイスファハーン周辺ではアフマド・イブン・アッターシュ(先述のアブドゥルマリク・イブン・アッターシュの息子)が1100年、ゲルドクーフ城砦(英語版)(シャー・ディズ城砦)を落とし、アラムート周辺では1102年、配下のブズルグ・ウミードがアラムートの西方にあるランバサル城砦(英語版)を落としてアラムート地域の防衛を強化。クーヒスターンでも教勢の拡大により、アラムート周辺につぐニザール派の拠点としての位置を確たるものとした。また1100年前後からハサニ・サッバーフはシリアにもダーイーを派遣している(シリアでのニザール派については後述)。

しかしマリク・シャー没後のセルジューク朝の混乱は1104年には一段落し、1106年バルキヤールクの没後イラン方面のセルジューク朝権力はムハンマド・タパルに集約されることになった。ムハンマド・タパルはニザール派の一掃を期して反攻に転じた。1107年にシャー・ディズ城砦が陥落、ほかにもザーグロス山脈方面でいくつかの城砦が陥落した。またアラムート近辺のガズヴィーンの街でも争奪が繰り返されている。1115年ころからはセルジューク朝軍による大規模なアラムート城砦包囲戦が行われたが、1118年のムハンマド・タパルの死去によって包囲軍は瓦解、アラムートは窮地を脱した。こうしてハサニ・サッバーフはマリク・シャー、バルキヤールク、ムハンマド・タパルの三代にわたるセルジューク朝の包囲をことごとく退けたことで名声を博し、名実ともにニザール派第一の指導者として認められることになるが、イランでのニザール派の拡大も1110年前後には限界に達し、以降セルジューク朝との攻防は一進一退を繰り返す膠着状態となった。ハサニ・サッバーフは1124年6月に没した。

ハサニ・サッバーフはイマームのフッジャとしてニザール派を指導したとされる。フッジャとはアラビア語でシーア派の文脈では「証し」を意味する。ニザール派がイマームとするニザールは1098年までにカイロで没しているが、ニザール派では代わるイマームを立てることをせず、ニザールは行方不明ないし「隠れ」の状態に入ったものとして扱い、ハサニ・サッバーフはフッジャ、すなわちイマームと唯一意を通じることの出来るイマームの代理者であるとしたのである。実際、ニザール派鋳造貨幣は12世紀後半に至るまでニザールのイマーム名アル=ムスタファの名が刻まれている。同時にハサニ・サッバーフはアラムートに古今の図書を集めた図書館を設置、以降アラムートの落城まで多くの学者を引きつけた。

ハサニ・サッバーフのあとを継いだのが、ランバサル城砦を治めるブズルグ・ウミードら4人のダーイーであった。ブズルグ・ウミードは徐々に他を圧倒し、1138年の死まで単独の支配を確立した。ブズルグ・ウミードはハサニ・サッバーフの施策を継承し、セルジューク朝との一進一退を維持した。1129年にはスルタン・マフムードから停戦が提案されたがこれを拒絶。また1131年にはアリー朝ザイド派イマーム、アブー・ハーシム・ジュルジャーニーを捕らえて処刑している。1135年アッバース朝カリフ・ムスタルシドの暗殺に関与したともされる。1138年2月9日、ブズルグ・ウミードは没し、息子ムハンマドが後を継いだ。以降、アラムートの指導者は代々ブズルグ・ウミードの子孫が継承する。第3代フッジャとなるヌールッディーン・ムハンマド(ペルシア語版)(ムハンマド1世)の時代には、アラムートによるニザール派全体の統治がほぼ確立され、ニザール派領域は安定した。このころまでにはバダフシャーンアフガニスタン最北東部))のイスマーイール派もアラムートの下に入った模様である。各地のダーイーはアラムートの指示に完全に服従することになるが、一方で重大な事態が発生しない限り、その自治性は認められた。20年強にわたってニザール派を率いたムハンマド1世は1162年2月21日に没し、息子ハサン・ズィクリヒッサラーム(英語版)(ハサン2世)があとを継いだ。
キヤーマの宣言による急進化

ハサン2世の統治は4年弱と短かったが、ニザール派の歴史の中でも非常に重要な時代である。アラムートの指導者は、ハサン2世にいたるまでニザール派の主席ダーイーかつニザールのフッジャ、すなわち代理人としてニザール派を率いてきたが、1164年8月ハサン2世はキヤーマを宣言したのである。イスマーイール派におけるキヤーマとはイマームのカーイム(=マフディー救世主)としての再臨のことであり、その日シャリーアは廃棄される。ハサン2世はこれにしたがって、シャリーアを廃棄、しかも自らがニザールの子孫であり、イマームであると示唆したのである。シャリーアの廃棄は通常イスラームの枠外に出ることを意味するが、ニザール派はハサン2世に従ってこの主張を完全に受け入れた。ただし実際のニザール派の活動においては教条的なシャリーア実践が改められたものの、頽廃的な乱脈に陥ったという史料の報告はない。

1169年1月9日、ハサン2世は保守派の義弟に殺害された。しかしあとを継いだ息子のヌール・アッディーン・ムハンマド2世もハサン2世の施策を受け継いだ。ムハンマド2世はアラムートの指導者はイマームとして、ニザール派の前に立ち、ハサン2世の教義の洗練に力を注いだ。すなわち父ハサン2世はニザールの子孫であると論じたのである。彼の40年強の統治は安定し、セルジューク朝の統一権力も完全に瓦解したこの時代、周辺諸勢力との関係においても比較的平和であった。シリアのニザール派が全盛期を迎えるのもこの時代である。ムハンマド2世は1210年9月1日に没し、ジャラール・アッディーン・ハサンすなわちハサン3世があとを継いだ。
ホラズムシャー朝とスンナ派化


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