ニザーム・アル=ムルク
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特に1067年には彼の名にちなんで、バグダードニザーミーヤ学院を設立した[3]。また、宰相とはいえ、実際に軍を率いて遠征に参加することもあった。イラン南部やアルメニアにも遠征しており、1071年東ローマ帝国とのマラーズギルトの戦い(マンツィケルトの戦い)にもアルプ・アルスラーンの軍に参加している。

1072年に即位したマリク・シャー1世は、1074年、王都(ダール・アル=ムルク)をエスファハーンに定め、同年天文台を建設し、さらにウマル・ハイヤームに命じてジャラーリー暦という新暦(太陽暦)をつくらせた。1086年から1087年にかけてはマリク・シャーとニザームによって金曜モスクドームが建てられた。これは、高さ20メートル、直径10メートルで、当時のイスラーム世界最大規模のドームであった。

こうしてセルジューク朝はマリクとニザームの両人体制がうまく機能したこともあって、遊牧国家の面影をのこす国から整備された帝国となり、2人が相次いで死去する1092年ころには最大版図を実現した。

ニザームは、政治家としてだけではなく、文化人としても一級であり、『政治の書』(スィヤーサト・ナーメ ????? ???? Siya?sat N?ma)[4]を記している。

しかし1092年、マリクの妃テルケン・ハトゥン(ペルシア語版)に些細なことから恨みを買って暗殺されてしまった。マリク・シャーの後継者として、ニザームはマリク・シャーの長男バルキヤールクを推したが、妃は自分の実子であるマフムードを推した(バルキヤールクとマフムードは異母兄弟)。この問題では、ニザームを敵対視していた大臣タージュルムルクが妃側につくなど、宮廷内に対立を引き起こした。一説によればこれはシーア派過激派のニザール派暗殺教団)によるもので、彼がスンナ派の権威回復に努めシーア派を弾圧したことへの報復ともいわれる[要出典]。
ニザーミーヤ学院とスンナ派復興政策

ニザームルムルクによって各地に創設されたニザーミーヤ学院マドラサ)は「マドラサ」という学問施設をイスラーム社会に定着させる切っ掛けとなった。もともと「マドラサ」とはホラーサーン地方で10世紀頃に生じた非常にローカルな学習施設であったようだが、ニザーミーヤ学院によってセルジューク朝以後、イスラーム世界全体に普及するようになった。ニザームルムルクによる創建当初は、王族達がシーア派であったブワイフ朝からスンナ派擁護を掲げるセルジューク朝に交替して日が浅く、イラク地方やイラン高原ではファーティマ朝カリフを奉じるイスマーイール派の宣教師(ダーイー)達の活動はまだまだ活発であった。ニザーミーヤ学院では当初は法学として(イラン高原一帯のスンナ派としては多数派であった)シャーフィイー学派と神学ではアシュアリー学派が講じられていた。イスマーイール派のダーイー達の教説に対抗しスンナ派信仰の復権が企図されていたようだが、特にシャーフィイー学派が講じられていた背景には主に中央アジアやセルジューク王家はじめテュルク系の軍人・貴族層に信奉されていたハナフィー学派との均衡政策等が考えられている。ニザームルムルクの庇護のもとに、シャーフィイー学派のとアシュアリー学派の擁護者としてニザーミーヤ学院で教鞭を取っていた代表的人物がアブー・ハーミド・ガザーリーである。マドラサ建設はアッバース朝やセルジューク朝にとってスンナ派政権復興のための大きな事業のひとつであったが、これは一面、王朝の支配層側がウラマー層や地域の名望家層の保護・統制の手段としても活用され、以後のイスラーム政権での各法学派の保護政策のひとつとしてマドラサ建設が奨励される嚆矢ともなった。
脚注[脚注の使い方]^ 「トゥース出身の、アリーの息子ハサン」という意味となる。
^ アタベク(アター・ベク)はセルジューク朝に始まる独特の制度で、スルタンの子弟が幼少のおり、寝食をともにして1対1で教育や後見にあたる養育制度。清水(1995)p.127-128
^ ニザーミーヤ学院は、バグダードのほかニーシャープールエスファハーンレイなどにも建てられた。
^ 『統治の書』とも。君主に統治理念を説いたものであるが、ペルシャ語散文学の傑作としても名高い。清水(1995)p.126

著作

ニザーム・アルムルク著『統治の書』(イスラーム原典叢書 井谷鋼造、稲葉穣 訳)、岩波書店、2015年

参考文献

清水宏祐
「ニザーム・アルムルク」佐藤次高編『人物世界史4 東洋編』山川出版社、1995年7月。ISBN 4-634-64330-8

関連項目

ニザーミーヤ学院

エスファハーンの金曜モスク

マリク・シャー
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