ニコ・ヒュルケンベルグ
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ヒュルケンベルグはミハエル・シューマッハなどのマネージャであるウィリー・ウェーバーのマネージメントをこのころから受けることになった。これは2006年末にA1のドイツチームを運営していたウェーバーが初戦のドライバーとしてオファーしたのが切っ掛けだった。
GP2ARTグランプリからGP2に出走する。(2009年モナコグランプリ

2009年はARTグランプリからGP2の本シリーズから出場する予定だったが急遽、アジアシリーズに第3戦目、第4戦目の2戦4レースのみ出場し2回のポールポジション、1回の優勝をした。

GP2本シリーズでも活躍を見せ、母国レースとなったニュルブルクリンクではネルソン・ピケJr.以来GP2史上2人目となるフルポイントレース(第1レースでポールポジションファステストラップ、優勝を独占し、リバースグリッドでのスタートとなる第2レースでも優勝とファステストラップを獲得。GP2では20ポイント獲得できる)を達成した。そして第9戦モンツァでGP2チャンピオンを獲得した。最終戦を残してのチャンピオン獲得はGP2史上初めてとなる。
F1
ウィリアムズウィリアムズ・FW32をドライブするヒュルケンベルグ。(2010年カナダグランプリ

マネージャーのウィリー・ウェーバーはF1でのテストドライブを行うためにルノーF1フラビオ・ブリアトーレに接触していたが、2007年12月4日にヘレスウィリアムズからテストする機会を得て[8]、2007年12月13日にウィリアムズのテストドライバーとなることが発表された[9]。これにより、2008年及び2009年はF3やGP2と平行してウィリアムズのテストドライバーを務めた。

2010年より同チームのレギュラードライバーに昇格[10]。チームメイトは大ベテランのルーベンス・バリチェロ。第3戦マレーシアGPでは10位入賞を果たし、F1で初ポイントを獲得した。その後はしばらく入賞がなかったが、第10戦イギリスGPで10位入賞を果たすと、第12戦ハンガリーGPでは自己ベストの6位でフィニッシュした。さらに、第18戦ブラジルGPにて予選で雨が降り出す前に好タイムを記録する幸運により自身初のポールポジションを獲得した。所属するウィリアムズにとっては2005年ヨーロッパGP以来5年ぶり、ルーキードライバーのPP獲得は2007年ルイス・ハミルトン以来3年振りの快挙である。ただし、決勝は8位入賞で終わった。シーズン後半は時折バリチェロに肉薄するパフォーマンスを見せることもあったが、8月下旬ごろから、2010年シーズンいっぱいでウィリアムズから放出されるのではないか、という報道がなされるようになった[11][12][13]。その背景としてウィリアムズは2010年末で複数の主要スポンサーの撤退が重なり2011年シーズンの資金が不足していた[14]。その為、最終的には持ち込み資金が豊富なパストール・マルドナドにシートを奪われる形になり、2010年限りでウィリアムズを離脱することを11月15日に発表した[15]
フォース・インディア(第一期)

2011年シーズンに所属するチームとして、フォース・インディアフェラーリなどが噂になった[16][17]。また、ウェバーがヴァージンから接触があったことを明らかにした[18]。最終的に、フォース・インディアにリザーブドライバーとして加入し[19]、シーズンを通して金曜フリー走行1回目に出走した(ベルギーGPはフリー走行2回目に出走。モナコ、シンガポール、韓国、インド、アブダビの各GPでは出走無し)。またこの年はF3時代からマネージャーだったウィリー・ウェーバーとの契約を終了し、今後は自身でマネジメントを行うことになった[20]

2012年シーズンエイドリアン・スーティルがチームから離脱し、レギュラードライバーに昇格した[21] 。開幕戦オーストラリアGPでQ3進出の9番手となったが、決勝はスタート時の接触事故でリタイアとなった。第2戦で9位入賞を果たすが、シーズン前半となる第10戦までの成績は第8戦の5位入賞を筆頭に10戦中計5回入賞にとどまった。母国である第10戦ドイツGPでは予選4番手でスタート時より順位を落とす形で9位入賞。第12戦ベルギーGPでは自己最高位となる4位で完走。特に最終戦ブラジルGPでは、難しい路面コンディションに翻弄されるドライバー達の中で、ドライタイヤで走り続けることを選択すると、ジェンソン・バトンと共に争いながら3位以下のドライバーを一時は40秒近くも引き離し、優勝も射程にとらえた。SC導入によりそのリードを失ってしまうものの、レース再開後も集中力を切らさず首位争いを演じた。しかしレース終盤に濡れた路面に足を掬われルイス・ハミルトンと接触。彼をリタイアに追い込んでしまい、ドライブスルーペナルティを受けたことで優勝争いから脱落。最終的に5位でチェッカーを受けた。後半戦は第12戦の4位を筆頭に10戦中入賞計6回を記録し、ランキングはディ・レスタを上回る11位を記録した。
ザウバーザウバー・C32をドライブするヒュルケンベルグ(2013年ドイツグランプリ

2013年シーズンにはフェラーリへの移籍話なども挙がっていたが、最終的にザウバーから参戦した。

チームは前年は表彰台を計4回獲得する活躍を見せたが、今季はチームの財政難が表面化。現に給料未払いが発生するなど、移籍の決断が正しかったのか問われる状況になった。成績のほうも、サマーブレイク前の第10戦までは第2戦こそ8位入賞を記録したが、それ以外の入賞は10位入賞3回のみとなった。サマーブレイク後の後半戦はマシン開発に成功し、入賞圏内での順位争いができるようになり、韓国GPでは決勝4位を記録し、後半戦の成績だけで前半戦の成績を超える活躍となった。ただしチームの資金不足は深刻なままであり、前年のフォースインディアに続いて所属チームが資金難となってしまった。
フォース・インディア(第二期)

フェリペ・マッサの後釜としてフェラーリのドライバー候補になったものの、最終的にキミ・ライコネンがシートを得た[22]。次にロータスと契約間近といわれながら、チームと投資家との交渉が難航して交渉が進展しない状況が続いた。最終的にはフォース・インディアに戻ることになった[23]
2014年

2014年、開幕戦から10戦連続入賞を記録し、特に序盤3戦が終わった時点ではドライバーズポイントではロズベルグ、ハミルトンに続く暫定3位、コンストラクターズランキングでもメルセデスに続く暫定2位につけた。だが、第11戦のリタイアをしてから、前半戦に上位入賞と比べれば、下位での入賞にとどまった。ドライバーズランキングは100ポイント近く獲得した9位と自身最多ポイントを獲得。チームメイトのセルジオ・ペレスの59ポイントの10位を上回ったものの、自身の最高位は5位に対し、ペレスは3位表彰台を獲得と手放しに喜べない面もあった。
2015年

2015年もフォース・インディアより参戦した。序盤は資金難の影響で他のマシンと比べ後れ[24]を取っていたが、第9戦でBスペックと称されたVJM08Bが投入[25]されてからは完走したレースでは入賞するようになった。


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