ニコラ・テスラ
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1881年1月、ハンガリーのブダペスト国営電信局に就職[8]。電信局で勤めるかたわら、「交流電流」方式の活用方法の探究を続ける[3]1882年、フランス・パリへと移動し、ゼネラル・エレクトリック社のフランス法人であるコンチネンタル・エディソン・カンパニーの技師の職を得て、同社で才能を認められ、1年後にストラスブールに転勤となった[3]。同社で勤めている時期にも、プライベートの時間を使ってモーターの開発を続けた[3]1882年誘導モーターの開発に成功。
渡米から後半生

ところが、欧州では彼が開発した誘導モーターに興味を抱く人に巡り会えず、渡米を決意[3]1884年の渡米時点では所持金も殆ど無く、自分で詠んだ詩や飛行機械のアイディアに関する計算を記した書類といったような物しか持っていない状態であった[3]エジソンのエジソン電灯会社の求人を見つけ採用される。当時、同社は直流による電力事業を展開していて、一方、テスラは交流による電力事業を提案し、エジソンと対立して数ヶ月で失職する。

1887年4月、独立したテスラは Tesla Electric Light Company(テスラ電灯社)を設立し、独自に交流による電力事業を推進して同年10月に交流システムの特許を出願[9]する。

1888年、彼が発明した誘電モーターおよび(交流式の)電気システムについて説明した論文“A New System of Alternating Current Motors and Tran.”を執筆[3]。(これが、テスラとウェスティングハウス社との連携へとつながり、「電流戦争」へと繋がってゆくことになる[3]。)1888年5月16日、アメリカ電子工学学会でデモンストレーションを行い、感銘したジョージ・ウェスティングハウスから研究費100万米ドルと特許使用料を提供される。テスラの特許を使用した交流発電機は、ウェスティングハウス・エレクトリック社ベンジャミン・G・ランム(英語版)の設計で、ナイアガラの滝エドワード・ディーン・アダムズ発電所(英語版)に三相交流25サイクルのものが設置された。

この時期、ウェスティングハウスはテスラのためにラボ(研究所)を設立し、さまざまなプロジェクトをまかせた。その中にはたとえばヴィルヘルム・レントゲンのX線の装置の開発などというものもあった[3]。テスラは同年に循環磁界を発見して超高周波発生器を開発するが、ウェスティングハウス社技術陣の中で孤立して1年で離れる。

1891年、申請が通り米国の国籍を取得[3]。同年、100万ボルトまで出力可能な高圧変圧器(テスラコイル)を発明。

1893年無線トランスミッターを発明する。シカゴ万博会場内の電気供給に、電気館の電源システムをウェスティングハウス社が構築して交流システムで電気のいっさいをまかなった[10]。これは、20台の単相500馬力発電機を2群にわけ、それぞれ回転子を90度ずらして二相交流12000馬力発電機として構成し、蒸気機関により駆動して発電した電力を変圧器で昇圧して送電後、再度変圧器で降圧して16燭光の電灯を1000個点灯するとともに誘導電動機を回したもので、ほかに回転変流機を設置して直流電源電車を走行させた。

1898年点火プラグの米国特許を取得し、無線操縦特許を取得してニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンで無線操縦の船舶模型を実演した[11]

1901年J・P・モルガンの援助により、ロングアイランドのショアハムに高さ57メートルの無線送信塔「ウォーデンクリフ・タワー」を建設開始し[12]1905年に完成するもモルガンとの関係悪化により資金繰りが悪化し研究を中断する[13]アメリカ合衆国第一次世界大戦に参戦すると、タワーは新しいオーナーと鉄鋼会社の契約に基づいて1917年に撤去[14]された。

1915年、エジソンとともにノーベル物理学賞受賞候補となったという噂が流れるが共に受賞しなかった[15]1938年にも受賞候補に選ばれるが受賞しなかった[16]

1916年、米国電気工学協会エジソン勲章の授与対象になり一度は辞退するが(後述)再考後1917年にこれを受ける[17][18]


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