ニコラ・ポール・ステファヌ・サルコジ・ド・ナジ=ボクサ(フランス語: Nicolas Paul Stephane Sarkozy de Nagy-Bocsa、1955年1月28日 - )は、フランスの元政治家。第23代フランス大統領、アンドラ共同大公 (Co-Prince of Andorra) を務めた。 1955年1月28日にパリで誕生する。ハンガリー系プロテスタントのハーフ、ギリシャ系ユダヤ人のクォーター、フランス系カトリックのクォーターである。1983年から2002年までヌイイ=シュル=セーヌ市長を務め、フランソワ・ミッテランの2期目には、エドゥアール・バラデュール首相(1993年?1995年)の下で予算大臣を務めた。ジャック・シラクの2期目の大統領時代には、内務大臣と財務大臣を務めた。2004年から2007年まで国民運動連合(UMP)党の党首を務めた。 2007年フランス大統領選挙では、社会党のセゴレーヌ・ロワイヤルに53.1パーセント対46.9パーセントで勝利した。在任中は2007年から2008年にかけての金融危機(景気後退、欧州債務危機)、南オセチア紛争(サルコジが停戦交渉した)、アラブの春(特にチュニジア、リビア、シリア)に直面した。フランスの大学改革(2007年)、年金改革(2010年)を主導した。2008年、イタリア系フランス人シンガーソングライターのカーラ・ブルーニとパリのエリゼ宮殿で結婚した。 2012年フランス大統領選挙では、社会党のフランソワ・オランドが3.2パーセントの差でサルコジを破った。大統領職を退いたサルコジは、2014年に公職を引退して復帰することを誓い、その後UMP(2015年に共和党に改称した。)の党首として再選された。2016年の共和党大統領選挙で敗北して公職を引退した。サルコジは特に2007年フランス大統領選挙におけるリビアの干渉疑惑に関する2つの事件で、フランスの検察官によって汚職で起訴された。2021年にサルコジと2人の共同被告人が裁判にかけられて有罪判決を受け、実刑判決を受けた。 1955年1月28日にパリに誕生する。子供時代をパリ17区、次いでヌイイ=シュル=セーヌで過ごす。父方はハンガリー・アラッチャーン ニコラ・サルコジが5歳の時、父のポールが妻とニコラら3人の息子を見捨てて離婚した。後に他の女性と2回再婚している。ニコラは母と母方の祖父に育てられ、貧しい少年時代を送る。母のアンドレは苦しい家計を支えるため、勉学を再開して弁護士となった。ニコラは「この頃の屈辱が自分の人格形成に最も大きく影響した」と述べている。ニコラの兄ギヨーム・サルコジ 1973年にバカロレア(大学入学資格)を取得し、パリ第10大学に入学。当時はジャーナリストを志していた。1976年に大学在学中に、ジャック・シラクの結成した保守政党・共和国連合(RPR)へ入党する。1977年にパリ西郊の高級住宅地オー=ド=セーヌ県ヌイイ=シュル=セーヌの市議会議員に最下位で当選する。同年、共和国連合中央委員に選出される。1978年から1979年まで共和国連合青年部全国代理、1979年から1981年まで共和国連合全国青年委員会委員長を務める。大学卒業後は一時パリ政治学院に在学していたが、ここでも英語がネックとなり修了できなかった。1981年に弁護士資格を取得し、不動産を専門とする法律事務所をパリに共同で開設する。1983年に28歳でイル=ド=フランス地域圏議会議員、ヌイイ=シュル=セーヌの市長に当選する( - 2002年)。犯罪の減少など一定の成果を上げる。 1988年に国民議会(下院)議員に初当選。ヌイイ市長と兼職する。1993年にバラデュール内閣の予算相として初入閣。同年、ヌイイ市内で発生した幼稚園立てこもり事件が起こる。この事件では、市長として犯人と直接交渉に臨み、人質の解放に貢献して全国的に有名となる。1995年フランス大統領選挙ではジャック・シラクから離反し、シャルル・パスクワについて対立候補のエドゥアール・バラデュールを支持する。しかし決選投票の結果、シラクが大統領に当選したため、第1次シラク政権では冷遇された。1997年に与党共和国連合(RPR)のナンバー2に返り咲き、1999年の欧州議会選で事実上の党首として陣頭指揮を取るが惨敗を喫し、一時は政治生命の危機も囁かれ、党の役職をすべて辞して弁護士としての活動に戻った。 2002年5月、ラファラン内閣の内務・治安・地方自由相として入閣、久々の表舞台となったが、サルコジ自身は首相職を望んでいたため、ますますシラクとの関係が微妙なものとなった。2003年3月19日に治安回復を目指し、軽犯罪の厳罰化と街娼の取り締まりなどを目的としたサルコジ法を施行させる。
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