ニコラエ・チャウシェスクの個人崇拝
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チャウシェスクに対する個人崇拝は組織的に展開され、ヨシフ・スターリン(Иосиф Сталин)、毛沢東ヨシップ・ブロズ・ティトー(?осип Броз Тито)に対する個人崇拝の水準に比肩するか、あるいはそれらを凌駕するほどにまで強まり、当時のルーマニア人からは密かに「マオ=チェスク」(Mao-Cescu)と呼ばれたこともあった[22]。チャウシェスクの訪問先の国々では、盛大な閲兵式が開催されるようになった[23]。ルーマニア国内ではチャウシェスクの比較的若いころの肖像画が各地に設置されるようになった。国内のどの書店でも、チャウシェスクに関する本(全28巻の演説集)が山積みになっており、ルーマニアの日刊紙はチャウシェスクの業績の記録に専念し、夕方のテレビ放送はチャウシェスクの日々の日程や活動を伝え[24]、新聞販売店や楽器店ではチャウシェスクによる演説を録音したものが販売され、画家や詩人はチャウシェスクを称える作品を創らねばならなかった[22]。チャウシェスクによる著書は再版を重ね、複数の言語にも翻訳された。著書は『Romania pe drumul construirii societ??ii socialiste multilateral dezvoltate』(『多国間で発展した社会主義社会の構築を進めるルーマニア』)との題名で数十巻に達し、ルーマニア国内のどの書店にも積まれていた[18]

チャウシェスク政権の頃には、作家、詩人、歌手、作曲家、映画監督、画家に公費を払っていた。画家たちは、チャウシェスクとその家族の肖像画を毎日大量に描いていた。チャウシェスクは、自身の誕生日に一般の人々からの無償の愛を描いた絵画を贈られるのを気に入っていた。チャウシェスクの時代に描かれた絵画は、ブクレシュティにある国立近代美術館に展示されているが、チャウシェスクへの敬意を示すわけではないことを表すため、美術館の管理者の決定に基づき、これらの絵画は斜めに傾き、逆さまに吊るされている[25]

チャウシェスクは、常に「偉大なる指導者」として描かれた。「カルパティアの天才」「理性に満ちたるドナウ」「我らが光の源」[26]、「これまでに見たことがない、新たな時代の創造者」[27]、「英雄の中の英雄」「労働者の中の労働者」「この地上に初めて出現した有力者」[24]といった賛美の言葉で彩られていた。

夫・ニコラエとともに、妻のエレナ・チャウシェスク(Elena Ceau?escu)も個人崇拝の対象となった。彼女の名誉欲と虚栄心は、夫のそれを上回っていた[28]。エレナには「無限に続く大空に隣り合って瞬ける星の如く、彼女は偉大なる夫の傍らで光り輝き、ルーマニアの勝利への道筋を見つめるのです」との賛美が捧げられ、「Mama Neamului」(「国民の母」)なる称号で呼ばれ、「党の光明」「女傑」「文化と科学を導く光」とも呼ばれた[25]

1983年12月、第一次世界大戦後のルーマニア統一65周年記念集会が開催された。しかし、他の多くの行事と同じく、実際にはニコラエ・チャウシェスクを祝賀するための行事であった。会場の正面には「ニコラエ・チャウシェスク書記長同志率いるルーマニア共産党万歳!」と書かれた横断幕が張られ、フォーク・ダンスバレエの上演も行われた。西側のある外交官は、チャウシェスクについて「東ヨーロッパにおいて最も独裁的且つ権威主義的な支配者」と表現したうえで「これは個人崇拝である」と呼んだ[24]

ニコラエ・チャウシェスクは、マルクス・レーニン主義の政治思想に重要な貢献を果たした共産主義の非凡な理論家であり、その「思想」は「ルーマニア国家におけるあらゆる成果や業績の源である政治指導者」として描写されるようになった[18]

1973年、ニコラエ・チャウシェスクの55歳の誕生日を記念して出版された著書『Omagiu』(『忠誠』)には、ニコラエとエレナに対する敬意の言葉が記述されている[29]

1978年1月、60歳の誕生日を迎えたニコラエ・チャウシェスクに対し、以下のような賛美の言葉が捧げられた[30]

「思慮分別のある操舵手」「洞察力のある指導者」「卓越した戦術家」「勇猛果敢なる旗手」「我らが歴戦の勇士」「国家の英雄」「疲れを知らぬ英雄」「我が国の歴代の英雄たちの中でも傑出した存在」「世界平和をもたらす英雄」「非凡なる才能に溢れた創造者」「カルパティアの守護神」「生命力に溢れた憧憬の象徴」「夢、希望、人類の樫の木」「森を動かす風」「国家の偉大なる指導者」「国の明敏なる令息」「現代に生きる傑物」「比類なき現代人」「社会主義ルーマニアの創始者」

自由欧州ルーマニア」(Europa Liber? Romania)の記者、ダン・イオネスク(Dan Ionescu)は、複数の著者によるチャウシェスクに奉じられた賛美の言葉をまとめている[31][32]

チャウシェスクは貧しい家庭の出身という出自を持ちながらも、努力を重ねて権力の座に上り詰めた人物として描かれており、ヴァスィーレ・オルソ・ニコラ(ルーマニア語版)やアヴラム・ヤンク(ルーマニア語版)らと象徴的に結び付けられた[19]。また、ヴラド・ツェペシュ(Vlad ?epe?)、シュテファン・チェル・マレ(?tefan cel Mare)、ミハイ・ヴィターズル(ルーマニア語版)、アレクサンドル・イオアン・クーザ(Alexandru Ioan Cuza)といった、ルーマニアの歴史上の人物たちにその名を連ねるようになった。

報道写真家は、ニコラエ・チャウシェスクの身長をシャルル・ド・ゴール(Charles de Gaulle)のそれと同じに見せようとしたり、チャウシェスクの姿については、常に彼の両耳が見えるように撮影した[33]。チャウシェスクの顔写真については、以前までは片耳だけが映っているものが多かったが、「intr-o ureche」(「片耳の中」)という言い回しは、ルーマニア語で「正気を失っている」を意味する言葉であり、以降は片耳だけが映っている顔写真は「不適切である」と見做され、両耳が映った顔写真や肖像画に変更された[34]

1983年5月14日付の日刊紙『Romania liber?』(『自由ルーマニア』)にて、記事の第一段落の文章にて、「tovar??ul Nicolae Ceau?escu」(「同志ニコラエ・チャウシェスク」)と書くべきところを、「tovar??ul」(「同志」)の表記が「tovar?ul」と、「?」の文字が抜けていた。1983年6月21日にブクレシュティ市の警備局が作成した報告書によると、この間違いは印刷所で発生した可能性があるが、その日に勤務していた校正担当班は、この綴りの間違いに気が付かなかったという。この間違いが意図的なものなのかどうかを判断するため、これに責任があると思われた者たち全員が尋問を受けたが、疑惑が確認されることは無かった[35]。その後、校正作業担当者の数は二倍に増やされ、間違いを犯した場合、懲戒処分として解雇される可能性が出るようになった。1987年11月6日付の雑誌『Flac?ra』(『炎』)の3ページ目に「tovar?ul」と、綴りの間違いが再び掲載されたが、気付いた者が現われ、修正された[35]1983年9月24日付の『自由ルーマニア』紙の第一面の記事「Patrie ?i unitate」(「祖国と統一」)の中で、ニコラエ・チャウシェスクの名前が「Nciolae Ceau?escu」と、誤って表記されていた。


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