ニコライ2世_(ロシア皇帝)
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アレクサンドル皇太子と母マリア・フョードロヴナ(1868年)。

ニコライ皇子と母マリア・フョードロヴナ(1870年)。

ニコライと母マリア・フョードロヴナ(1870年)。

ニコライとアレクサンドラの、公式の婚約写真(1894年4月)

ドイツヴィルヘルム2世とニコライ2世(右)。ヴィルヘルムはチュニック風のロシア軍服を着用しており、ニコライは逆にドイツ式の制服ヘルメットを身につけている。

青少年期1888年のロシア皇室一家。中央後ろがニコライ皇太子

7歳(1875年)から10歳(1878年)まで家庭教師アレクサンドラ・オロングレンに師事した[7]。オロングレンの子ウラジーミルとよく一緒に遊んだ。ウラジーミルによると子供の頃のニコライは「顔や挙動が女の子っぽいときが時々あった」という[8]。父アレクサンドル3世も息子の女々しいところをしばしば心配していたという[9]

10歳の頃から保守的なダニロビッチ将軍が家庭教師となり[注釈 1]、彼が選んだ教師によって語学、数学、歴史、地理、科学などを学んだ。とりわけ歴史と語学が得意であり、母語のロシア語に加えて、ロシア帝国首脳部で事実上の公用語であったフランス語、さらに自身の親族が君主として治める地域の言語である英語ドイツ語をも流暢に話せるようになった[10][11]

1879年にウラジーミルや弟ゲオルギーとともに中学校へ入学。学生時代のニコライは石蹴りバードウォッチングが好きだったという[12]

1881年に祖父の皇帝アレクサンドル2世が爆弾テロで暗殺された。その遺体は足がちぎれ顔は判別不能なほどに破損しているなど、当時の感覚では衝撃的な末路であった。その痛ましい姿を見た子のアレクサンドル皇太子は改革を志向した父帝とは反対に専制政治の強化を決意し、ニコライ皇子も決意を同じくしたという[13]

17歳(1885年)の時から帝王学を受けるようになった。高名な法学者でロシア正教聖務会院であるコンスタンチン・ポベドノスツェフから民政法、元大蔵大臣ニコライ・ブンゲ(ロシア語版)から政治経済学、メール将軍とドラゴミロフ将軍から軍事学を学んだ[14]。ポベドノスツェフの回顧録によるとニコライ皇太子は勉強熱心ではなく、授業中鼻糞をほじっていたという。しかしポベドノスツェフの専制君主体制護持の思想には強い影響を受けた[4]

19歳でプレオブラジェンスキー近衛連隊に入隊した。フッサール近衛軽騎兵連隊や軽騎兵砲兵隊にも配属された。ロシアの近衛連隊は軍隊というよりも貴族の社交の場であり、ニコライ皇太子も将校クラブで楽しく過ごしたという[15]
世界旅行

両親の勧めで1890年10月から1891年8月にかけて世界各地を旅行することになった。旅行の中心地はイギリスとロシアが勢力圏争いをしている極東だった[16]。ニコライ皇太子本人はほとんど気乗りしていなかったが、仲のいい弟ゲオルギーが同行することに喜んでいたという[17]。ただ、ゲオルギーは風邪をこじらせて途中で帰国した[18]

まずウィーンからギリシャへ向かい、ギリシャ王ゲオルギオス1世の次男ゲオルギオス王子(従兄弟にあたる)がニコライに同行することになった。ニコライとゲオルギー(インドまで)とゲオルギオス王子は、エジプト英領インドコロンボ英領セイロン)、英領シンガポールサイゴンフランス領インドシナ)、オランダ領東インドバンコクシャム)、英領香港上海広東)を歴訪した後、最後に日本を訪問した[18][19][20]
訪日1891年、長崎訪問時のニコライ皇太子(上野彦馬撮影)

1891年4月27日にニコライ皇太子を乗せたロシア軍艦が長崎に寄港した。以降5月19日まで日本に滞在した。日本政府はこの未来のロシア皇帝を国賓待遇で迎え、その接待を念入りに準備していた。各休憩所で出される茶菓子の吟味にまで及んでいた[18]。公式の接待係には、イギリスへの留学経験があり当時の皇族中で随一の外国通であった有栖川宮威仁親王(海軍大佐)が任命された。また岩倉使節団の留学生としてロシアに10年滞在しロシア女性と結婚した万里小路正秀[注釈 2]が通訳を務めた。

ニコライは長崎寄港前にピエール・ロティの『お菊さん』を聞いていたため、滞在中一時的に日本人妻を娶りたがっていたという。


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