ニコライ・ブハーリン
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1915年に北欧アメリカニューヨークに移る。この時期は、レーニンと理論や革命戦術をめぐり対立していた一方で、新聞『ノーヴィ・ミール』の編集に携わり、その過程でレフ・トロツキーアレクサンドラ・コロンタイと親しい関係を築く。

1917年ロシア革命(二月革命)が起こると、5月にアメリカから横浜を経由して、ロシアに帰国する。帰国後、ブハーリンは、党モスクワ委員会とモスクワ・ソビエトで活躍し、モスクワ市議会議員にも選出される。第6回党大会で中央委員に選出される。十月革命後、党機関紙『プラウダ』の編集長となる。しかし、1918年ブレスト=リトフスク条約調印をめぐり、ブハーリンは、「左翼共産主義者」グループを率いて、対独講和を主張するレーニンに反対した。ブハーリンは、ドイツ革命を目論見てドイツを訪問。スパルタクス団に影響を与えるが、国外追放処分を受ける。ドイツ革命には失敗したものの、ブハーリンは内戦中、理論家として赫々たる成果を上げる。クートヴェで共産主義に関する講義を主催し、若手の研究者の養成に尽力すると同時に、1919年には、エフゲニー・プレオブラジェンスキーと共同で「共産主義のABC」、1920年「過渡期の経済学」、1921年史的唯物論」を次々に著し、レーニンから激賞された。1919年ロシア共産党(ボリシェヴィキ)政治局員候補に選出される。1921年戦時共産主義政策が緩和され、ネップ(新経済政策)が採択されるとブハーリンは、スターリンとともに一国社会主義論の立場を取り、農民との協力体制の下、漸進的な社会主義国家建設を主張していった。1924年レーニンの死後、政治局員に昇格する。また、コミンテルンでも要職を占め、1926年ジノヴィエフの跡を襲い、コミンテルン執行委員会議長に就任した。コミンテルン支部として創設された日本共産党に対しては、綱領案である22年テーゼ27年テーゼの起草に関与している。モスクワの集会で、労働者代表と新聞記者に囲まれたブハーリン(1926年)

1928年7月に行われたコミンテルン第6回大会では、開会演説をブハーリンが行い、次いでスターリンらと共に幹部に選ばれるなど[1]、ブハーリンは、スターリンと組んで党内主流派の一角を占めるが、それも長くは続かなかった。トロツキーとの権力闘争自体ではトロツキーを厳しく批判したが、トロツキーの党からの除名には反対した。スターリンとは、工業化と農業の集団化をめぐり、対立するようになり、ブハーリンは、アレクセイ・ルイコフミハイル・トムスキーと共に、政治局内で反スターリン派を形成するものの、逆にスターリン派から「右翼」として批判されたブハーリンは、党、政治局員、プラウダ編集長、コミンテルン議長を解任された。一度は失脚したもののブハーリンは、ファシズムの台頭を危惧し、自己批判してスターリン支持を表明した。1934年には、党中央委員候補、『イズベスチヤ』誌編集長として復帰し、1935年の新憲法(いわゆる「スターリン憲法」)起草にも参加する。

しかし、1936年大粛清が開始されると、イズベスチヤ編集長を解任され、党中央委員会に喚問され、スターリンによって捏造された資料が提示され批判を受ける。1937年には、ブハーリンとルイコフは党中央委員候補を解任され党から除名される。同年2月にブハーリンは逮捕され、その前夜、夫人のアンナ・ラーリナに名誉回復の上申書「党の指導者の未来の世代へ」を記憶させた。獄中でも4つの著作を残している(スターリンの死後に発見された)。1938年3月の第三回モスクワ裁判でブハーリンは、自らの罪を認めればブハーリン自身を死刑にしないことと、妻子を助けるという約束のもとに有罪を認める。しかし、約束は守られること無く、ブハーリンは「ドイツ日本ポーランドの手先」として、1938年3月15日に銃殺された。49歳だった。死の直前には、スターリンへ宛てた一文を残している。そこには、スターリンの政権掌握以降ほとんどの人が使うのを避けていたかつての愛称を用いて.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}コーバよ、なぜ私の死が必要なのか?

と書かれており、1953年のスターリンの死後に机の中から発見された[2]


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