ニコライ・ゴーゴリ
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同年、ペテルブルクに戻ったゴーゴリは今度は俳優を志すも失敗。かろうじて下級官吏の職を得る。この時期の貧しく寒々とした生活の経験は、のちに「ペテルブルクもの」と呼ばれる都市の下層民や小役人・俗物たちを描いた作品群に活かされることになる。

1830年、匿名で『ビザヴリューク、あるいはイワン・クパーラの前夜』を発表。不遇のうちにも詩人ジュコーフスキーや、ペテルブルク大学総長で詩人・批評家のピョートル・プレトニョフの知遇を得る。

1831年に女子愛国学校(英語版)に職を得ると生活は安定し、同年5月、ジュコーフスキーの紹介でプーシキンと出会う。プーシキンはゴーゴリの才能を評価し、以後、親交を持った。同年9月、当時流行したウクライナのフォークロアに取材した『ディカーニカ近郷夜話』(第1部1831年、第2部1832年)を出版すると一躍人気作家となる。

1834年から1835年まではペテルブルク大学歴史を教え、その後"ウクライナもの"を集めた『ミルゴロド(ロシア語版、ドイツ語版、英語版)』や、ペテルブルクを舞台にした『肖像画』、『ネフスキー大通り』、『狂人日記』、『鼻』などの中編小説(ポーヴェスチ、повесть)を発表、文名がいよいよ高まる。

1836年、戯曲『検察官』で名声は更に広がったが、ゴーゴリが得意とする皮肉やユーモアは非難の対象にもなり、ゴーゴリは非難の声を避けるべくローマへ発つこととなった。

1837年、ローマへの旅路の途中パリでプーシキンの訃報を知る。プーシキンの死に衝撃を受けたゴーゴリは、以後、キリスト教の予言と教化によってロシア民衆を覚醒させ、理想社会へと教え導くことこそ己の使命であると盲信するようになる。

その後、ゴーゴリは人生の大部分をドイツイタリアで過ごすこととなった。その時期の手紙を根拠にゴーゴリには同性愛の傾向があったと言われる[4]1839年には恋人が突然死するが、その件がゴーゴリの後半生にどのような影響を与えたのかについては未だ謎が多い。『死せる魂』と『外套』を書いたのはこの頃のことである。

『死せる魂』第一部は1842年に刊行され、第一部は克服すべきロシアの腐敗を描いた序章にすぎず、第二部・第三部で主人公チチコフの成長と魂の救済、美と調和を体現する理想のロシアが描かれる予定だった。しかし執筆は遅々として進まず、1845年、ゴーゴリは苦悶のあまり第二部の草稿を火中に投じる。

1847年、『友人との往復書簡選』[5]を出版するも、頑迷で教条的な説教と、帝政と農奴制を賛美する反動思想とによって、ベリンスキーをはじめ、それまでゴーゴリを高く評価してきた支持者の多くを失う。

1848年、信仰にのめり込んでいたゴーゴリはエルサレム巡礼に旅立つ。エルサレムからの帰還後は聖職者コンスタンティノフスキーの影響のもと信仰生活のため文学を棄てることを決心。書き溜めてあった『死せる魂』の第二部を再び焼いてしまう[6]。ゴーゴリが断食のためにモスクワで没したのはそれから10日後、1852年3月4日のことだった。
解釈・評価

ゴーゴリの初期作品は、主にエルンスト・ホフマンをはじめとするヨーロッパ・ロマン派[7]の影響下にあり、概して明るいユーモアとロマン主義的な幻想性を特徴とする。古いロシア文学もゴーゴリに強い影響を与え、またスラブ神話からも多くのプロットを作り出した。

中期以降の作品では、地方地主たちの安逸な日常や、ペテルブルクの小役人・下層階級の人々の日々の生活の現実的で詳細かつ極めて誇張された描写から来る笑いと、それらの俗悪さ、空虚さ、卑小さへの作者の絶望と恐れから来る詠歎とが同居した独特の文体を特色とする。その笑いは『外套』の「人道主義的箇所」[8]や、『死せる魂』第一部に顕著な抒情的詠歎などから、しばしば「涙を通しての笑い」と呼ばれる。

ゴーゴリ作品への評価にはロシア文化における西欧派とスラヴ派(民族主義派)の分裂・相克が映し出されている。帝政への不満を持つ急進的な知識人たちはゴーゴリの作品を醜悪な現実社会を映し「社会批判」「社会改革」を志向する「諷刺文学」として受け容れた。『鼻』や『外套』などに見られる空想的要素については厳しい検閲に対する目くらましとも言われた[9]

ところが現実の政治や社会問題に対するゴーゴリの見解は、評論や書簡、回想などから窺い知る限り、視野が狭く極めて保守的だった[10]


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