2002年からはウラジーミルの少年スポーツ学校の校長を務め[7]、北京オリンピック代表のユーリイ・リャザノフなどを育てあげた[6]。
2011年3月21日、故郷のウラジーミルで58歳で亡くなった[1]。進行性の神経障害を患っておりパーキンソン病に似た症状となり[6]、亡くなる数ヶ月前には会話もできず、手足を動かすこともできなかった[3][7]。
「体操ニッポン」の好敵手として活躍した一方、礼節を重んじる日本を愛し、日本の体操ファンからも愛された人物だった。塚原光男はニコライの死去に触れて、「日本にならってソ連にお辞儀や整列などの礼儀を持ち込んだ素晴らしい人物」と話した[2]。
賞歴
世界選手権
個人総合:1974年 - 銀、1978年 - 金
団体総合:1974年 - 銀、1978年 - 銀、1979年 - 金
個人種目別跳馬:1974年 - 銀、1978年-銀、1979年 - 銀
個人種目別平行棒:1974年 - 銀、1978年 - 銀
個人種目別あん馬:1974年 - 銀
個人種目別つり輪:1974年 -金、1978年 - 金
ワールドカップ
個人総合:1975年 - 金、1977年 - 金
個人種目別跳馬:1977年 - 銀
個人種目別ゆか:1975年 - 銀、1977年 - 金
個人種目別平行棒:1975年 - 金、1977年 - 金
個人種目別あん馬:1975年 - 銀
個人種目別つり輪:1977年 - 金
ヨーロッパ選手権
個人総合:1971年 - 銅、1973年 - 銀、1975年 - 金
個人種目別跳馬:1971年 - 金、1974年 - 金、1975年 - 金
個人種目別ゆか:1971年 - 銅、1973年 - 金、1975年 - 金
個人種目別平行棒:1971年 - 銀、1973年 - 銀、1975年 - 金
個人種目別あん馬:1971年 - 金、1975年 - 銀
個人種目別つり輪:1971年 - 銀、1973年 - 銀
個人種目別鉄棒:1975年 - 金
ソビエト連邦国内選手権
個人総合:1972年 - 金、1973年 - 金、1974年 - 金、1979年 - 銅
個人種目別跳馬:1971年 - 金、1972年 - 銀、1979年 - 金
個人種目別ゆか:1972年 - 金、1974年 - 金、1975年 - 金
個人種目別平行棒:1972年 - 銀、1974年 - 金、1979年 - 金
個人種目別あん馬:1972年 - 銀、1974年 - 金
個人種目別つり輪:1972年 - 銀
個人種目別鉄棒:1972年 - 金、1975年 - 金
ソビエト連邦カップ
個人総合:1972年 - 優勝、1974年 - 優勝、1978年 - 3位
関連項目
オリンピックで多数の金メダルを獲得した選手一覧
脚注[脚注の使い方]
出典^ a b c d “旧ソ連体操エース、アンドリアノフ氏死去”. 日刊スポーツ (2011年3月22日). 2011年9月11日閲覧。