ニコメディア
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しかし、この拠点はニカイア皇帝(英語版)テオドロス1世ラスカリスによって絶え間ない襲撃を受け、この襲撃の中でド・ルースはニカイア兵によって捕らえられた。1207年の夏までにラテン皇帝アンリ(英語版)はド・ルースおよびテオドロス1世によって捕らえられていたその他の虜囚と引き換えにニコメディアを退去することに同意した[14]。この後、ニコメディアは1世紀以上の間ビザンツ帝国の支配下に残留したが、1302年のバフェウスの戦い(英語版)での敗北の後には急成長するオスマン君侯国によって脅かされるようになった。ニコメディアは1304年と1330年の2度、オスマン帝国によって包囲され封鎖された。そして最終的に1337年にその軍門に下った[10]
古代の都市インフラ

ローマ帝国時代、ニコメディアはコスモポリタン的かつ商業的に成功した都市であり、ローマの主要都市に相応しい快適さの全てを享受していた。ニコメディアは2つか3つの水道橋から豊富な水の共有を受けていることで良く知られており[15]、そのうち1つはヘレニズム時代に建設された。小プリニウスは110年頃に作成したトラヤヌス帝への『頌詞(英語版)』で、ニコメディア人は2度にわたる工学的トラブルに直面した未完成の水道橋のために3,518,000セステルティウスを無駄にしたとぼやいている。トラヤヌスは小プリニウスに水道橋を完成させるための処置を取ることと、多額の資金浪費の背景にあるであろう役人の汚職について調査するよう命じた[16]。トラヤヌス時代にはこの地には大規模なローマ軍の駐屯地もあった[17]。他の公共施設には劇場、ヘレニズム都市に典型的な列柱道路、そしてフォルムがあった[18]

重要な宗教的聖地としてデメテルの神殿があり、これは港の上にある丘の神聖な境内に立っていた[5]。ニコメディアはローマの公式宗教を熱心に採用し、コンモドゥス帝に捧げられた神殿[19]オクタウィアヌスに捧げられた街の聖地と[20]、共和制末期に建立された女神ローマに捧げられた神殿があった[5]

ニコメディアは253年にゴート人によって略奪されたが、ディオクレティアヌスが283年にこの都市を自身の首都にした際に壮大な再建を行い、巨大な宮殿、兵器廠、造幣局、そして新しい造船所が建設された[5]
著名な出身者および居住者

ディオクレティアヌス

アッリアノス

聖ゲオルギオス

聖バルバラ

聖パンテレイモン

ニコメディアのアドリアノ

ニコメディアのアンティモス(英語版)

ニコメディアのアルサキオス(英語版)

ニコメディアのケクロピオス(英語版)

ニコメディアのユリアナ(英語版)

ニコメディアのテオペンプトス(英語版)

ニコメディアのテオフィラクトス(英語版)

ミカエル・プセルロス(11世紀、ギリシア人の著作家、哲学者、政治家、歴史家)

マキシマス・プラナズ(英語版)(13世紀、ギリシア人の学者、文芸評論家、翻訳家、文法学者)

アーロン・ベン・イライジャ(英語版)(14世紀、カライ派ユダヤ人、哲学者)


聖パンタレオン

アッリアノス

ディオクレティアヌス

リキニウス

聖バルバラ

遺構イズミットに残るニコメディアの水道橋の跡

ニコメディアの遺構は人口稠密な現代の都市イズミットの地下に埋まっている。このために広範囲な発掘調査は行えなくなっている。20世紀の都市化が進展する前、都市を囲むローマの城壁と、かつてニコメディアに水を供給していた水道橋といった重要なものを含む素晴らしい[訳語疑問点]ローマ時代の都市遺構を見ることができた。その他の記念碑には、イスタンブル通りにある2世紀に設立された大理石のニンファエウム、市内のユダヤ人墓地の巨大な水槽、港湾の城壁の一部がある[5]

1999年のイズミットの地震はこの都市の大部分に深刻な損害を与えたが、同時に瓦礫の撤去の間に古代ニコメディアについての重要な発見をもたらし、ヘラクレスアテナ、ディオクレティアヌス、コンスタンティヌス1世のものを含む豊かな古代の彫像が発見された[21]

地震から数年後、イズミット地方文化総局(the Izmit Provincial Cultural Directorate)は発掘調査用の小さな区域を割り当てた。この区域にはディオクレティアヌスの宮殿跡と特定されている地区やそのそばのローマ劇場の跡が含まれる。2016年4月、コジャエリ博物館(英語版)の監督の下で、ディオクレティアヌス宮殿のより広範囲の発掘が始められた。この宮殿遺跡はの60,000平方メートルの広さを持つと推定されている[22]
出典[脚注の使い方]^"Nicomedia" in the American Heritage Dictionary
^ Peter Levi, ed. Guide to Greece By Pausanias. p. 232. .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 0-14-044225-1 
^ Cohen, Getzel M.. The Hellenistic settlements in Europe, the islands, and Asia Minor. p. 400. ISBN 0-520-08329-6 
^ “ ⇒Belt Section with Medallions of Constantius II and Faustina”. The Walters Art Museum. 2019年4月閲覧。
^ a b c d e W.L. MacDonald (1976年). ⇒“NICOMEDIA NW Turkey”. The Princeton Encyclopedia of Classical Sites (Princeton University Press). ⇒http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus:text:1999.04.0006:entry=nicomedia 
^ Timothy D. Barnes (1981). Constantine & Eusebius 
^ a b Patricia Southern (2001). The Roman Empire: From Severus to Constantine 


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