これらの政策は、基本的にはエイレーネー時代の減税の廃止や、徴税の厳格化などであり、ニケフォロス1世の経済政策への知識が遺憾なく発揮されている。また、船乗りたちに対する政策は、彼らの生活基盤の強化や商業活動支援政策になったと考えられる。住民の移住政策は、当時帝国領に復帰して間も無かったギリシャ地区、特にペロポネソス半島に対する支配強化と、中部地中海への進出の始まっていた北アフリカのイスラーム勢力に対する防衛強化策であると考えられている。なお、これらの政策はエイレーネー時代から受け継がれたものであり、ニケフォロス1世はバルカン半島に新たにテマ・テッサロニキ、テマ・ペロポネソス、テマ・デュラキオンを設置した。また、テマ・ケファレニアもニケフォロス1世が設置した可能性がある。
対外政策クルム・ハーン(左端の人物)の下にニケフォロス1世の髑髏杯(右端)が差し出されようとしている(マナセス年代記(ブルガリア語版、ドイツ語版)[14世紀]の挿絵)。しかし、これは後代の創作である。上図の部分拡大。
ニケフォロス1世の時代、フランク王国のカール大帝とは、800年のクリスマスにカール大帝がローマ教皇から与えられた「ローマ皇帝」の称号を巡って交渉が続けられ、パクス・ニケフォリ(英語版)(803年)の締結[注 4]こそ成ったものの、ニケフォロス1世の代で最終的解決もしくは妥協に到ることは無かった。また、反乱を起こしたヴェネツィアに対して、809年に艦隊を派遣している。さらに、帝国の東西で軍事遠征を繰り返して行っている。しかしこれらの多くは成果を挙げることがなかった。東方のアッバース朝に対しても何回か軍事遠征を行うが(クラソスの戦い、アッバース朝の小アジア侵攻 (806年))、ハールーン・アッ=ラシードの反撃に遭って敗北し、貢納金を支払う条件で和約を結んでいる。
一方、彼の時代には第一次ブルガリア帝国がクルム・ハーン治世下で勢力を拡大し、エイレーネー時代に回復したテマ・マケドニアやテマ・トラキアなどへの侵入を繰り返していた。ニケフォロス1世はこれに対しても何回か軍を派遣する。そして811年にはブルガリア領内に大軍を率いて侵入し、首都プリスカ (Pliska) を制圧・焼き打ちした。クルムはこのとき和平を乞うたが、ニケフォロス1世は応じなかった。しかしその直後の7月26日、バルカン山脈のバルビツィア峠(英語版)でブルガリア軍に襲われてニケフォロス1世は戦死し、遺体すら発見できなかった(プリスカの戦い)。ローマ皇帝の戦死はハドリアノポリスの戦い(ゴート戦争)でのウァレンス以来のことである。
なお、後代の史書には、ニケフォロスがクルムの下に引き出されたり、ニケフォロスの頭蓋骨が金箔を貼られ、クルム所有の髑髏杯にされてしまったなどと書かれているものがあるが、これらはみな後付けの伝説である(■右列の画像を参照)。
脚注[脚注の使い方]^ 6- 7世紀に帝国の国力が衰微し、異民族の侵入が相次いだ時代、現代のギリシャの地にいたギリシア人の多くが南イタリア(マグナ・グラエキア)や小アジアへ逃げていた。この政策はこれらのギリシア人を故地に戻そうとするものであったと言われている
^ 実の息子から帝位を簒奪したエイレーネーには人望が無く、人気取りのために無理な減税を行って財政を破綻させていた。
^ 宝物とは、古代末期の異民族の侵入により、バルカン半島では古代ギリシア以来の都市の多くが放棄され、ギリシア人が逃亡してしまったが、その際に住民達が貨幣などを地中に埋めて逃げていったものを指すと言われている。この政策は、イサウリア王朝以降、帝国が安定を取り戻しつつあり、かつての都市のあった場所に住民が戻ってきていたことを示していると言われる。
^ この和約によって両国の版図は確定されたが、東ローマ側がカールの帝位を容認することは無かった。
表
話
編
歴
東ローマ皇帝
テオドシウス朝
アルカディウス383-408
テオドシウス2世408-450
マルキアヌス450-457
レオ朝
レオ1世457-474
レオ2世474
ゼノン474-491
バシリスクス(対立皇帝)475-476 | 断絶 | アナスタシウス1世491-518
ユスティニアヌス朝
ユスティヌス1世518-527
ユスティニアヌス1世527-565
ユスティヌス2世565-578
ティベリウス2世578-582
マウリキウス582-602
フォカス602-610
ヘラクレイオス朝
ヘラクレイオス610-641
コンスタンティノス3世641
ヘラクロナス641
コンスタンス2世641-668
コンスタンティノス4世668-685
ユスティニアノス2世685-694
レオンティオス695-698
ティベリオス3世698-705
ユスティニアノス2世(復位)705-711 | 断絶 | フィリピコス・バルダネス711-713
アナスタシオス2世713-715
テオドシオス3世715-717
イサウリア朝
レオーン3世717-741
コンスタンティノス5世741-775
レオーン4世775-780
コンスタンティノス6世780-797
エイレーネー797-802
ニケフォロス朝
ニケフォロス1世802-811
スタウラキオス811
ミカエル1世ランガベ811-813
レオーン5世813-820
アモリア朝
ミカエル2世820-829
テオフィロス829-842