ニケフォロス1世
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エイレーネー時代の減税を撤廃[注 2]

慈善施設などの小作農に人頭税を課税。

宝物を急に得た人に課税[注 3]

20年以内に瓶や容器を発見した人に課税。

過去20年以内に遺産を相続した人に相続税を課税。また、アビュドス(テマ・アビュドス)以外で取引された家内奴隷に課税。

小アジアの船乗りたちに、強制的に土地を購入させた。

コンスタンティノポリスの船乗りたちに強制的に資金を貸し付けた。

これらの政策は、基本的にはエイレーネー時代の減税の廃止や、徴税の厳格化などであり、ニケフォロス1世の経済政策への知識が遺憾なく発揮されている。また、船乗りたちに対する政策は、彼らの生活基盤の強化や商業活動支援政策になったと考えられる。住民の移住政策は、当時帝国領に復帰して間も無かったギリシャ地区、特にペロポネソス半島に対する支配強化と、中部地中海への進出の始まっていた北アフリカのイスラーム勢力に対する防衛強化策であると考えられている。なお、これらの政策はエイレーネー時代から受け継がれたものであり、ニケフォロス1世はバルカン半島に新たにテマテッサロニキ、テマ・ペロポネソス、テマ・デュラキオンを設置した。また、テマ・ケファレニアもニケフォロス1世が設置した可能性がある。
対外政策クルム・ハーン(左端の人物)の下にニケフォロス1世の髑髏杯(右端)が差し出されようとしている(マナセス年代記(ブルガリア語版、ドイツ語版)[14世紀]の挿絵)。しかし、これは後代の創作である。上図の部分拡大。

ニケフォロス1世の時代、フランク王国カール大帝とは、800年クリスマスにカール大帝がローマ教皇から与えられた「ローマ皇帝」の称号を巡って交渉が続けられ、パクス・ニケフォリ(英語版)(803年)の締結[注 4]こそ成ったものの、ニケフォロス1世の代で最終的解決もしくは妥協に到ることは無かった。また、反乱を起こしたヴェネツィアに対して、809年に艦隊を派遣している。さらに、帝国の東西で軍事遠征を繰り返して行っている。しかしこれらの多くは成果を挙げることがなかった。東方のアッバース朝に対しても何回か軍事遠征を行うが(クラソスの戦いアッバース朝の小アジア侵攻 (806年))、ハールーン・アッ=ラシードの反撃に遭って敗北し、貢納金を支払う条件で和約を結んでいる。

一方、彼の時代には第一次ブルガリア帝国クルムハーン治世下で勢力を拡大し、エイレーネー時代に回復したテマ・マケドニアやテマ・トラキアなどへの侵入を繰り返していた。ニケフォロス1世はこれに対しても何回か軍を派遣する。そして811年にはブルガリア領内に大軍を率いて侵入し、首都プリスカ (Pliska) を制圧・焼き打ちした。クルムはこのとき和平を乞うたが、ニケフォロス1世は応じなかった。しかしその直後の7月26日バルカン山脈のバルビツィア峠(英語版)でブルガリア軍に襲われてニケフォロス1世は戦死し、遺体すら発見できなかった(プリスカの戦い)。ローマ皇帝の戦死はハドリアノポリスの戦いゴート戦争)でのウァレンス以来のことである。

なお、後代の史書には、ニケフォロスがクルムの下に引き出されたり、ニケフォロスの頭蓋骨が金箔を貼られ、クルム所有の髑髏杯にされてしまったなどと書かれているものがあるが、これらはみな後付けの伝説である(■右列の画像を参照)。
脚注[脚注の使い方]^ 6- 7世紀に帝国の国力が衰微し、異民族の侵入が相次いだ時代、現代のギリシャの地にいたギリシア人の多くが南イタリアマグナ・グラエキア)や小アジアへ逃げていた。この政策はこれらのギリシア人を故地に戻そうとするものであったと言われている
^ 実の息子から帝位を簒奪したエイレーネーには人望が無く、人気取りのために無理な減税を行って財政を破綻させていた。
^ 宝物とは、古代末期の異民族の侵入により、バルカン半島では古代ギリシア以来の都市の多くが放棄され、ギリシア人が逃亡してしまったが、その際に住民達が貨幣などを地中に埋めて逃げていったものを指すと言われている。この政策は、イサウリア王朝以降、帝国が安定を取り戻しつつあり、かつての都市のあった場所に住民が戻ってきていたことを示していると言われる。
^ この和約によって両国の版図は確定されたが、東ローマ側がカールの帝位を容認することは無かった。










東ローマ皇帝
テオドシウス朝

アルカディウス383-408

テオドシウス2世408-450

マルキアヌス450-457

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レオ2世474

ゼノン474-491

バシリスクス(対立皇帝)475-476 | 断絶 | アナスタシウス1世491-518

ユスティニアヌス朝

ユスティヌス1世518-527

ユスティニアヌス1世527-565

ユスティヌス2世565-578

ティベリウス2世578-582

マウリキウス582-602

フォカス602-610

ヘラクレイオス朝

ヘラクレイオス610-641

コンスタンティノス3世641

ヘラクロナス641

コンスタンス2世641-668

コンスタンティノス4世668-685

ユスティニアノス2世685-694

レオンティオス695-698

ティベリオス3世698-705

ユスティニアノス2世(復位)705-711 | 断絶 | フィリピコス・バルダネス711-713

アナスタシオス2世713-715

テオドシオス3世715-717

イサウリア朝

レオーン3世717-741

コンスタンティノス5世741-775

レオーン4世775-780

コンスタンティノス6世780-797

エイレーネー797-802

ニケフォロス朝

ニケフォロス1世802-811

スタウラキオス811

ミカエル1世ランガベ811-813

レオーン5世813-820

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