ニクソン・ショック
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1971年8月15日にニクソン大統領の声明が発表された後、欧州各国はまだ外国為替市場が開いておらず、即閉鎖を決定し結局23日に再開するまで1週間は市場を閉じたままであったが、日本はこの声明が出たのが8月16日の午前10時で、すでに外国為替市場が開いており、ドル売りが殺到し、日銀がドル買いに走り、日本の外貨準備高が一気に100億ドルの大台を超えるなど混乱したが、その後も市場を閉鎖することがなかった。西欧各国とも対応がばらばらで、西独は2ヶ月前に変動相場制に移行していたし、仏は二重相場制、英は上限変動相場制、オランダなどベネルクス3国は域内は固定相場制で域外は変動相場制をとっており、各国間の調整はつかなかった[9]

日本はその後10日余りは固定相場制を維持したが、あまりの為替市場の混乱に、1971年8月27日に外貨準備高が125億ドルに達して、この日の閣議で翌28日からやむなく為替相場で1ドル360円に上下1%の変動幅の制限枠を撤廃し、変動相場制に移行することを決定した。1ドル360円の時代はこの日に終わった[注釈 6]。ショックから12日後である。円の為替レートは前日までの360円から変動相場となった初日8月28日に342円となり、その後340円前後にとなり、年末までに320円前後を推移した[7]

この1971年8月15日のニクソン大統領の声明そのものが経済活動に直接影響を与えたわけではなく、その後の多国間通貨調整でドルと他国通貨の為替レートの変更、特にマルクと円の切り上げが経済面で大きな影響を与えた。そして金とドルの交換停止は第二次大戦後の国際金融の枠組みであったブレトン・ウッズ体制の終焉を告げたという意味で、このニクソン声明は重要なものであった[10]
ニクソンショックまでの動き

ニクソン大統領の声明までの動きは以下の通りである[11]

2月11日?ジョン・コナリー[注釈 7]が米国財務長官に就任。3か月後の米銀行家協会主催の国際通貨金融会議にて「ドルを切り下げることも金価格を変えることも考えていない」と語る。しかし、ニクソンとコナリーはいずれ金交換停止に踏み切らざるを得ないとして同時に物価賃金統制令を実施することで合意していた。すでにこの頃には、ニクソン政権へ失業とインフレに対する無策の不満が高まっていた。

6月29日?コナリー財務長官は記者会見で「賃金物価監視委員会は設置しない」「賃金・物価の直接統制はしない」「減税はしない」「財政支出の追加はしない」と言明する。しかし、財務省の特別チームがドルと金との交換停止実行計画を練り上げていた。この特別チームは、ポール・ボルカー[注釈 8] 財務次官、ジョン・ペティ財務次官補、ウィリアム・デールIMF理事(米国代表)の3名で、金交換の停止のメカニズム、必要なドルの切り下げ幅、相手国に求める市場開放策、通貨制度の改革案を盛り込んでいた。この時に輸入課徴金の創設は入れていなかった。自由貿易主義の原則からは大きく外れるものであったからだが、コナリーが後に政治的判断で追加して、ボルカー財務次官が自国の保護主義で論理的に矛盾しているとして強く反対したがコナリーは押し切った。

7月10日?日本で経済学者が集まった為替政策研究会で円の小刻み切り上げを提唱。

7月20日?日銀が公定歩合を0.25%引き上げ。

8月初旬?ニクソンにコナリーから包括的な新経済対策の提案が渡される[注釈 9]。しかし8月は議会が休会中なのでニクソンは9月に実施する予定にした。この頃に米国上下両院国際通貨分科会が報告を出して、ドルの切り下げ、主要国との平価調整、金交換の停止、ドルの変動制移行などの通貨政策の選択肢を挙げている。

8月 9日?前週にフランスでドル売りが加速し、週明けに投機が再燃した。

8月13日?英国が30億ドルの金交換を要求。この日にキャンプ・ディビッドの山荘に極秘に16名のスタッフをニクソンは集めた。ニクソン、コナリー以外にはアーサー・バーンズFRB議長、ポール・マクラッケン大統領経済諮問委員会(CEA)委員長[注釈 10]ジョージ・シュルツ[注釈 11] 行政管理予算局長、ポール・ボルカー財務次官らが顔を揃えた。会議で新政策の骨子が出された後に、ドルと金との交換停止に異を唱えたのがバーンズFRB議長であった[注釈 12]。しかし大勢は賛成で結論が出された。

会議は当日午後3時15分から延々4時間にわたったと言われる。スタッフの間では7月下旬には新経済政策について立案作業が始まっていたが、まさか8月13日に緊急会議で決定して発表されるとは予想していなかった。その後にはワーキングペーパーを作成するための作業チームが3班編成されて、それを基に大統領スピーチライターのサファイア―が演説草稿を書きあげた。その作業チームには「賃金物価凍結」にはマクラッケン、「減税」はシュルツ、「金交換停止と輸入課徴金」はコナリーとボルカ―が担当した。そして翌日の土曜日の夜明け前に演説草稿が出来上がった[12][注釈 13]

この会議のことはロジャーズ国務長官やレナード国防長官には事前に知らされず、二人が知ったのは翌日の午後であった[13]


8月14日?市場の混乱で日銀のドル買いがこの日だけで1億ドルに達し、前年末の外貨準備高が44億ドル、それが7月末で79億ドルで、すでにこの日で軽く80億ドルを超えていた。

8月15日?米国東部標準時午後9時にホワイトハウスからニクソン大統領が新経済政策を発表。

8月16日?日本時間午前10時にニクソン声明を受ける。佐藤栄作首相は10分前にロジャーズ国務長官より電話連絡を受ける。市場はすでに開いた直後であった。至急に大蔵省で緊急幹部会が開かれて、鳩山威一郎事務次官は緊急措置として市場の閉鎖を、同期の柏木雄介顧問は市場の開放をそれぞれ主張して甲論乙駁の末、市場を開け続けることになった。この日だけで日銀は6億ドルの平衡買いを行い、東証株価は210円50銭安(8%減)となった。一方、13時間遅れのニューヨーク市場ではダウ平均が32.93ドル上昇してそれまでの最大の上げを記録していた。米国民は諸手を挙げて新政策を歓迎していた。

ニクソンショック後の動き

大統領声明後の日本での混乱した動きは以下の通りである[14]

8月17日?佐藤首相が閣議後に大蔵省幹部と協議。引き続き市場を開放することに決定。この日も6億ドルの商いであった。首相の指示で柏木雄介顧問を急遽欧米に派遣。柏木顧問はパリでレネップOECD事務総長やフランス政府高官と意見交換した後にワシントン入りして、コナリー、ボルカー、マクラッケン、シュバイツアーIMF専務理事らと協議。

8月21日?佐藤首相に柏木顧問より報告が入る。日記に「どうも円の切り上げはやむを得ないか」と記す。

8月22日?大蔵省は極秘の緊急幹部会を開き、柏木情報も参考に変動相場制を検討したが結論は出ず。

8月26日?大蔵省文書課長が佐藤首相のもとへ、2日後に為替のフロートを最大7%幅で行い、デノミネーションも同時に行う案を打診する。首相はデノミ案は却下する。

8月27日?日銀のドル買いが1日12億ドルに達する。ここまででショック後に約40億ドルを日本銀行は買い入れていた。わずか10日間であった。

8月28日?1ドル360円の固定相場制から変動相場制に移行。初日は約5%上昇。
1950年以降のドル対円の為替レート
スミソニアン体制へ「スミソニアン体制」を参照

変動相場に移って以後、早く固定相場に戻るべきとして円の単独切り上げで固定相場を復活させる考え方もあったが、結局多国間での通貨調整が行われる見通しになった。そしてG10先進10か国蔵相会議を舞台にした多国間通貨調整は以降、9月半ばのロンドン、9月末からのワシントン、11月末のローマを経て12月半ばのワシントンで決着を付けることとなった。最初のロンドンでは米国が黒字国責任論を唱え黒字国の相当大幅な切り上げを求め、金に対する切り下げを拒否した。9月末からのワシントンでは大きな進展はなく米国に輸入課徴金の撤廃とドル切り下げを求める日欧と、あくまで貿易黒字国の責任を声高に主張する米国との対立は解けなかった。11月9日に来日したコナリー財務長官と首相との会談が11日に行われ、席上10%の輸入課徴金の廃止と同時に24%の円切り上げをとの話[注釈 14] が出ていた。11月末のローマでコナリーが初めてドル切り下げに言及して年内決着の見通しが出てくる中で12月12?13日に大西洋上のアゾレス諸島で行われた米仏首脳会談でニクソンとポンピドゥー大統領との間でニクソンはドルの切り下げを確約した。この頃には円の為替は320円を割って実質切り上げ率は12%になり、西独の実質切り上げ率を上回るようになっていた。

12月15日に水田蔵相は佐藤首相を訪ね交渉前の最後の打合せを行った。首相は米国がドル切り下げに踏み切ったので「切り上げ巾も大巾でも余り影響混乱はないと思へる」としたが口頭では「然し14%台にとどめ度い」と蔵相に述べている。ただ別には「20%以下ならいい」と聞いたという話もあり、首相はドル切り下げで多少とも切り上げ率が高くなっても影響はないと考えている見方もできる。決着が付いた後の情報が入って「解決した事はとも角一安心」と日記に記している[15]

1971年12月17?18日、ワシントンD.C.スミソニアン博物館で先進10か国蔵相会議[注釈 15] が開かれ、ここでドルと金との固定交換レートを実質7.98%引き下げ(1オンス35ドルから38ドルへ)、米国の輸入課徴金10%の廃止、固定相場制を維持しつつそれまでの変動幅を上下1%から2.25%に拡大することとし、ドルと各国通貨との交換レートを国家間の多角的調整で決定された(スミソニアン協定)。このスミソニアン協定によって各国の対ドル為替レートが変更され、ここで固定為替相場に戻った[7]

その中で日本円は、従前の1ドル=360円から16.88%[注釈 16] 切り上げされ1ドル=308円となった。この日本円の為替レートが決まると他のマルク以下のレートが決まって行った。この切り上げ幅は各国通貨の中でも最大で、他の国では西独が13.5%、英仏が8.57%、オランダが11.57%、伊が7.48%のそれぞれドルに対する切り上げとなり、この時に通貨調整をした国は50か国に及んだ[9]。西独がそれまでに何度かの切り上げを行って、なお且つショック前に変動相場制に移行しており、日本はずっと360円の固定相場を維持して切り上げをしてこなかったことが、ここにきて日本だけ大幅な切り上げにつながったことは否めない。


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